| 君へ、僕から |
寂しいと思わないわけではない。
そう考えないようにしているだけだ。
ずっと香穂子のことを考えているわけではないが、ふとした瞬間にあの笑顔が浮かぶとどうにも手につかない時がある。
今がまさにそうだった。
それまで集中していた楽譜から顔を上げる。カーテンを閉めていない窓からは、月が見えている。
星が瞬き、時折ずっと下から車の行き交う音が聞こえるくらいで、物音はしない。
今何をしているだろうかと時計を見ると、かなり遅い時間だったことに気付く。明日はリハーサルだ。早く眠らなくてはとちらりと思うだけで、香穂子の声を聞きたくて仕方がない。
ウィーンは今何時だろうか。同じヨーロッパだから大した時差はない。ということは香穂子は既に眠っているかもしれない。
ホテルの部屋に備え付けてある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。半分ほど飲んだ所で、随分と喉が渇いていたことを知る。
ついでにシャワーでも浴びようかと思っていた所へ、備え付けの電話が鳴った。
「Hello?」
「ロータスです。今大丈夫ですか?」
「ああ」
同じホテル内にいても携帯にかけて寄越すのに、今回は珍しく部屋の電話なのだな。
ほんの少しからかいが混じっていることに気付いたマネージャーが「実は・・・」と言葉を濁す。
「携帯をクリーニングに出したジャケットの中に入れっぱなしにしてしまいまして。これから取りに行ってきます」
「持ってこさせればいいだろう」
「明日のリハーサルの件で急いで連絡しなくてはならないことがあるんです。待っている時間が惜しいので」
それならばこうして話している時間も惜しいのではないだろうかと考えた沈黙は、聡い彼にはすぐに伝わってしまう。
「朝一番の便で一度ウィーンに戻ります」
ああそういえばそうだったなと思い出す。だから迎えはない、つまりちゃんと起きてくれと言いたいらしい。
「学生の頃とは違う」
寝起きが悪いことを誰から聞いたのか知らないが・・・恐らく香穂子だろうということは察しがついている・・・時間がないのにわざわざからかう為に電話してきたのだろうか。
「カホコさんに、メッセージがあればと」
月森の反論を綺麗に聞き流した敏腕マネージャーに、いつかささやかな仕返しをしてやろうなどと、小さな決心をしてみたり。
それにしても、一度ウィーンのアパルトマンに寄るのだろうか。
「時間があればあなたが元気でいることをお伝えして来ようと思うのですが」
「必要ない」
携帯やメールでやり取りはしているし、それはロータスも知っているはずだ。
「何を企んでいる?」
「まさか。何もありませんよ」
・・・どうだか。
一瞬の沈黙が、このマネージャーにとっては雄弁なものであることを、月森は気付いていない。
「おや、私のことを疑っておられるのですか、マエストロ?」
「・・・・・・とにかく、必要ない」
「そうですか。お手紙なりお預かりすることもできますが?」
手紙。
何を今更と思うのと、案外いいかもしれないと思うのが半々で、かなり迷う。
「迷われるならお書きになったらいかがです?そのくらいの時間は待てますよ」
「・・・いや、」
やっぱりいいと言いかけたのを、ロータスが敢えて遮った。
「それでは一時間後にお部屋に伺います」
言うなりぷつっと切れてしまった。
(手紙か)
もうすぐウィーンに帰るのだし、今更手紙など書いても気恥ずかしい。
しばらく考え、やがて机の引き出しを開けた。
「では行って参ります」
「ああ」
夜には戻るというロータスに、ホテルのロゴが印刷された封筒を手渡す。大切そうにジャケットのポケットにしまった。
「携帯は?」
「ああ、無事に受け取りましたよ。すみません、今後気をつけます」
「俺は別に構わないが」
いざとなれば部屋を訪れればいいのだから。けれども、月森のように常に居場所を知っている人間ばかりではない。
既に何件か着信不在にしてしまったらしく、こうしている間にもぴりぴりと着信音が鳴った。
「気をつけて」
「ありがとうございます」
小さく一礼した後「Hello?」と慌しく歩き出しながらロータスが電話に出た。いつも忙しい男だ、などと笑うと、部屋のドアを閉めた。
香穂子が不思議そうな顔でかのマネージャーを出迎えた。
「こんにちは、香穂子さん」
「あれ、どうしたんですか?」
まさか夫に何かあったのではと心配顔になるのを笑顔で否定する。
「お届けものです」
そう言って、ジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。
ホテルのロゴが印刷された封筒。
几帳面な字で「香穂子へ」と書いてある。
「蓮から?」
「特別なメッセージだそうですよ。ラブレターと言うのでしたね」
「ラっ・・・ちょっとロータスさん、からかわないで!」
全くそう思っていない笑顔で「すみません」と頭を下げた。
「お返事をお預かりしましょうか?」
「うーん・・・」
数秒迷って「お願いします」と答える。では一時間後にまた伺いますとにこやかにドアを閉めた。
「手紙なんて恥ずかしいなあ」
そういえば手紙のやり取りをしたことはなかったなと思い出す。何か用事があった時は携帯やメールで済んでしまっていたから。
どきどきしながらオープナーで封を開ける。
一枚の便箋が入っていた。
「うわあ、どきどきする」
月森の字を見る機会は、結婚してからは少なくなった。高校生の頃は、借りた楽譜の書き込みなどで見ることは多かったのだが。
日本語ならなおのこと、もしかしたら結婚してから初めて見るかもしれない。
かさりと便箋を開ける。
何度か読み返すたびに、香穂子に浮かんだ笑みが深くなる。
嬉しそうに便箋に唇を落として、香穂子も机の引き出しを開けた。
香穂子へ
いつもは書かない手紙を、何となく書いてみようと思う。
もうすぐ君に会えるというのに、少し気恥ずかしい。
けれど、普段口に出して言えない想いを、少し書いてみたい。
香穂子。
今、君の笑顔を見たい。とても強く、そう思う。
一ヶ月も会えないというのは、意外と辛いものなんだな。今度からは君にも同行してほしい。
もちろん俺が寂しくなくなるというのもあるし、少しでも色々な音楽に触れてほしいからでもある。
場所が変わればそれだけ刺激も多く存在するし、きっと君は楽しめるだろう。
あと一週間ほどで帰るから、待っていてくれ。
追伸
香穂子。
いつも君を想っている。
蓮
2011.8.8UP