| もし、もし本当に私を大事にしてくれるなら、決して一人で背負い込まないで |
じゃあ行ってくる、といつものように出かけていったのが一週間前。
アメリカを縦断する形でツアーが組まれていて、帰ってくるのは一ヶ月後。
日本に一時帰国するとか、一緒についていくことも蓮は提案してくれたけど、ここにいることにした。時々エージェントの人が様子を見に来てくれたり、 食事やお茶に誘ってくれるから、さほど寂しさも感じない。
けれど。
一人でのんびりする生活も飽きてきて、やっぱりついていけば良かったかなあと思い始めた頃だった。
「ジュリアさん」
蓮のエージェントの人から電話がかかってきた。ジュリアさんは時々お茶に誘ってくれる、少しふくよかだけど笑顔がかわいい人だ。
「カホコ。今からパスポートと着替えを少し持って、待っていてくれますか?」
「・・・何があったんですか?」
パスポート、ということは、蓮に何かあったんだ。
「レンさんが倒れました」
「・・・・・・!」
「ああ、すみません、倒れたと言うのは言葉がきつい。ええと・・・」
ドイツ語もできる蓮はともかく、英語もドイツ語も覚束ない私の為だけに、スタッフの何人かは日本語を勉強してくれている。いつもは彼女たちの日本語ではほとんど不自由を感じたことがない。けれど今これほど焦りや苛立ちを感じたのは初めてだった。
「蓮がどうしたんですか?!何があったんですか?!教えて、ジュリアさん!」
「カホコ、落ち着いて」
「落ち着いていられるものですか!」
突然倒れたと言われて平然とできるわけがない。
「今あなたの迎えにセレシアーノが行っています。詳しいことはセレスから聞いて下さい」
その間に準備をしておくように言うと「とにかく落ち着いてください」と申し訳なさそうに言いながら通話が切れた。
携帯を片手に、しばらく呆然と立ち尽くす。
蓮が、倒れた。
頭が真っ白になって何も考えられない。
準備をしなくちゃいけないとわかっているのに、体が動かない。
そうしてどれくらいの時間が経っただろう。
誰かの来訪を告げるドアベルが鳴らされた。
「カホコさん。セレスです、セレシアーノです。開けて下さい」
ドンドンとドアが叩かれている。私は何も考えずにドアを開けた。
「カホコさん・・・」
セレスさんが悲痛な面持ちで私を見ている。自分が今どんな表情をしているのかさえわからない。
失礼しますと一言セレスさんが告げて、ドアを閉めた。
「ジュリアから電話が来ましたか?」
「蓮が、倒れたって・・・」
ああ、とセレスさんが小さく舌打ちした。
「倒れたというのは言いすぎです。実は熱を出してしまって、下がらないんです」
「熱?」
はい、とセレスさんが頷いた。
「アメリカに着いて北から南へと移動していたので、温度が・・・ああ・・・」
「温度差についていけなかったっていうことですか?」
ああ、そうです、とセレスさんが言った。
「次のステージは3日後です。前のステージは、ドクターが一緒でした。でも体がつらいから次のステージはやめたほうがいいと言われています」
蓮は絶対にやめないだろう。
そんな確信があった。
案の定首を縦に振らず、ドクターも説得を続けているのだと言う。
「あなたに来てもらっても熱が下がらないかもしれない。でも私たちにはあなたが最後の手段なんです」
「私は、何をすればいいんですか?」
少し頭が落ち着いてきた。
高熱が下がらないままステージに立とうとする蓮。
それを止めようとする医者やスタッフたち。
確かに私が行ったところで何の役にも立たないだろう。
けれど、何かできることがあるはずだ。
望みは薄いけれど、とにかくアメリカへ行こう。
「セレスさん、もう少し待ってくれますか。準備をしてきます」
「はい。飛行機は夜に出ます。あと1時間後にここを出れば間に合いますから」
一時間しか許された時間はない。
車で待っているというセレスさんが出て行くと、私はスーツケースを引っ張り出した。
「暑い・・・」
ヨーロッパの暑さとも違う、日本の暑さとも違う、日差しが肌に刺さるような暑さ。
立っているだけで体力を奪われていくようだ。
「香穂子さん!」
空港を出るとロータスさんが駆け寄ってきた。
「わざわざすみません。長旅お疲れ様でした。荷物を置きに、一度ホテルへ・・・」
「蓮はどこですか?」
ロータスさんが、え、と止まった。
「蓮の所へ連れて行って・・・!」
涙目で訴える私に、ロータスさんが「・・・わかりました」と頷いた。
車の中でロータスさんが今の状況を説明してくれた。
熱は相変わらず下がらないこと。
ドクターは諦めて解熱剤でどうにかするしかないと匙を投げたこと。
蓮は普段通りに過ごそうとするあまり、一人になった時の反動がひどいと思われること。ただ、周りに誰かがいると・・・例えロータスさんであっても・・・普段通りにしようとするから、看病もできないこと。
「今はリハーサル中です。熱を下げる薬を使っています」
「そうですか・・・」
勢いでここまで来てしまったけれど、本当に私にできることは何もない。
ただ傍にいることしか。
何もできない自分が悔しくて仕方なかった。
「貴女が来ることを、蓮さんは知りません」
一度言ったが「必要ない」と断ったのだとロータスさんは言った。
「貴女にいてもらっても仕方ないというより、来てもらうことが申し訳ないように、私には思いました。それならば来てもらう価値は少しでもあると」
ロータスさんの言葉からは、本当に蓮を心配しているのがわかる。
だから私も、できるだけのことをしようと心に決めて、蓮のいるコンサートホールへと向かった。
リハーサル中だから、気が焦るけど静かにホールのドアを開けた。
「・・・・・・!」
オーケストラの音の渦がぶわっと流れ込んでくる。
出番を静かに待つ蓮は、目を閉じて立っていた。
蓮だけを見つめながら、一番後ろの席に座る。下手に私がいることを悟らせて動揺させたくない。
オケの音で聞こえないとわかっているのに、呼吸すら止めてしまいそうなほど、私はただじっと、蓮だけを見ていた。
ロータスさんは舞台袖で控えている。ドクターも一緒にいるはずだ。
早くリハーサルが終わってほしいと、ただそれだけを願っていた。
久々の蓮の音が聴ける喜びよりも先に。
「・・・なぜ君がここにいるんだ」
リハーサルの間、蓮は私に気付いたようだった。
休憩に入るなり私の元につかつかと歩いてきて、憮然と言い放ったのだ。
「私が勝手に来たの」
「誰から聞いた」
「・・・・・・」
言えば責められるであろうことは想像に容易い。
本当に私が勝手に来たことだから、誰から聞いたなんて言うつもりは全くなかった。
「ほら、蓮のツアーについてくっていう話してたじゃない?ウィーンで待ってるのも暇になってきたから、来ちゃったの」
「・・・全く、君は・・・」
もしその通りなら、蓮に一言言うことを、彼は知っている。
私が言うつもりがないことをわかってる。そんな顔でため息をひとつついた。
「誰を責めるつもりもない。元はといえば俺の体調管理ができていなかったせいだ」
「普段は私にしつこいくらいに言うのにね?」
いたずらっぽく舌を出して努めて明るく。
「私が来たからには、もう大丈夫だよ」
何の根拠もない自信だけが、今の私の全てを支えていた。
本番は、明日。
リハーサルを終えたら、とにかく点滴を打ってとしつこく言って、どうにか了承を得た。
そうして今、病院のベッドで蓮が静かに眠っている。
熱があるのに普段通りに過ごそうとするし、リハーサルまでやったせいで、体力の消耗が激しい。
ベッドに横になるなり、すぐに深い眠りに落ちていった。
「一人じゃないんだから、こんな時にこそ頼ってほしかったな」
蓮の眠った顔を見ながら、小さく呟いた。
以前、蓮の仕事についていったことがあった。
スタッフが気を使ってくれることが申し訳なくて、それ以来ついていくことはしていない。
家で蓮が帰ってくるという楽しみを味わうこともできなくなるから。
そんなことを言ったのを覚えていたんだろう。だから私が来る必要はないと言ったのだろうと思う。
でも、こんな時こそ。
「一人で背負い込まないで。私を想ってくれるなら」
「・・・ああ」
悪かった、と寝ているはずの蓮が言った。
「起きてたの?!」
いつから?と問うた私に、今先ほどだと絶対そうは思えないはっきりとした口調で、蓮が起き上がった。
「だいぶ良くなった、最初からこうしておけば良かったな」
「解熱剤だけで乗り切ってたんだって?」
病院に行けば他のスタッフ達に心配をかけてしまう。
ロータスさんがようやく説得して連れてきたドクターも、蓮の控え室から一歩も出られずに待機していたのだそうだ。
「なんてひどいこと」
笑いながら言うと、蓮が髪に手をやって苦笑した。
「そうだな」
後で謝っておこうと真顔で言うから、是非そうしてくださいと小さく頭を下げる。珍しく、小さく吹き出して蓮が笑った。
「今ロータスさん呼んでくるね」
「ああ、頼む」
きっとこってり絞られるんだろうなと思いながら、病室のドアを開けた。
ヒトリゴト。(ブログより
ちょっと無理矢理な感がありまくりですが、これにて終了です。>
実際には熱が下がらないまま本番を迎えることになるという後日談も妄想・・・いやいや創作してみたいなと思っておりますが、いつか機会がありましたらば。
2010.8.9〜15UP