| 帰ってきてください、ここにいますから |
月森がウィーンへと旅立って、もうすぐ四年目になる。
変わらず大学の桜並木は満開に咲き誇り、可憐な花びらを降らせている。
今年も来たなあ、なんて呑気に見上げていたら。
「口に花びら入るんじゃないか?」
「香穂さんの口の中に入る花びらになれるなら・・・」
「・・・桜、綺麗ですね・・・」
「香穂先輩・・・」
何だか背後で聞こえている。
「聞こえてるよ、皆!っていうか土浦くん、口に花びら入るほどあんぐり開けてないけど!」
「そうか?じゃあ元から口が大きいんだな」
「・・・・・・」
「まあまあ二人とも」
加地がなだめに入るが、彼だって自分の口の中に入る花びらになれるなら、とかうっとりした口調で言っていた。
後輩二人は元からマイペースだから、隣で喧々囂々繰り広げられる「大騒ぎ」に入れずに各々言いたいことを言う。それは本人たちの精一杯のタイミングらしいのだけれど。
「それで、何が『今年も来たなあ』なの?」
唯一加地だけが進む方向が違うのだが、何故だかくっついてきた。
「今年も春が来たなあって」
・・・あながち嘘ではない。本当でもないが。
月森が、心から初めて愛した女性を置き去りにして、遠く日本を離れた季節。
自分がソロのヴァイオリニストとして身を立てる為に、納得する音楽を奏でることができるようになるために。
旅立った季節。
毎年この季節になるとどこか元気をなくす香穂子に、皆その理由を知っていても何もできない。ただぶつけようのない苛立ちが、またひとつ心の中に蓄積されるだけだった。
「・・・香穂さん」
いつにない、真面目な表情で、加地が立ち止まった。何かを言いかけて口を開く。
「いったい、いつまで」
「ほら加地くん、加地くんの学部はあっちでしょ?遅刻しちゃうよ」
じゃあ私、こっちだから!とヴァイオリンに障らない程度に早歩きで背を向けた。
聞きたくないと、その小さな背中が全力で拒否していた。
「・・・フォローしないからな」
「うわ、酷っ!土浦っていつからそんな酷い人間になったんだい?」
「・・・酷いのはお前だ!それに俺は元からこういう人間だ!」
「僕の何が酷いって言うのさ!」
そんなやり取りを背後で聞きながら、香穂子は申し訳なく思う。
自分がたった一人の人間を忘れられなくて、周りに気を使わせて。
たった一人。
されど一人。
この世にたった一人しかいない「月森蓮」という人間を、自分は好きになって。好きになってもらった。
彼が彼であるために、遠く日本を離れたのは誰よりもお互いがわかっている。
だから、香穂子は月森を追ってウィーンに行くことはしない。
音楽の点では追いつきたいが、きっと香穂子がウィーンまで追っていけば、そこで終わりになってしまうような気がするから。
何度も留学を薦めてくれたことがあるけれど、音楽で身を立てようとは思っていない香穂子には、どこか遠い話でしかなかった。
それが、唐突に自分の恋人に降った話なのだから、最初は驚きもした。でもよくよく考えてみれば、月森の立場や状況を考えれば至極当然の事なのだと思い至る。
「・・・春だねえ」
土浦達が見えなくなった所で立ち止まり、どこからか降り注ぐ桜の花びらを見上げる。
桜を待たずに行った人。
「でもいつか、桜を見ようね。一緒に」
待ってるから。
あなたが私を迎えにきてくれること。
だから。
「私は、ここにいるからね。ずっと待ってるから」
帰ってこないかもしれない。
別な誰かを選び取るかもしれない。
それがはっきりするまでは、香穂子は待ち続けようと決めた。
「月森くん・・・」
浮かびそうになった涙をごしごしとこすって、香穂子は正面を見据えて再び足を踏み出した。
そして。
二人が衝撃の再開を果たすまで。
あと、数日。
ヒトリゴト。(ブログより
オリジナル「きみにあいにゆくよ」直前のお話。
この後、香穂子は加地達と浜井美沙のコンサートに出かけ、月森の現在の状況を知るのです。激怒した加地が月森に電話をして・・・お話に続く、という想定で書いています。
2010.11.19UP