君を泣かせたり怒らせたりするためだけに、この身があるわけじゃないのに

 




 担任に呼び出されて遅くなってしまい、俺は練習室へと急いでいた。

 香穂子は屋上に行ってから来ると言っていたから、着くのは同じ頃だろうか。

 少しでも早く彼女の顔が見たくて、つい急ぎ足になってしまう。


「・・・でしょ」

 事務室の辺りから数人の女子生徒の声が聞こえてきた。

 良くない雰囲気のようだが、俺には関係のないことだ。

 しかし何気なく見やって・・・俺はかなり驚いた。

(香穂子)

 数人の音楽科の女子生徒に囲まれているのは香穂子だったのだ。

 ただ何も言わず、女子生徒の顔を睨むように見据えている。

「・・・香」

「あなたたちに言われなくても、自分の技術が月森くんより遥かに劣ることくらいわかってますから。それと、別れることについては、」

 香穂子が言葉を区切る。女子生徒たちが意地の悪い笑みを浮かべた。

「できません」

「なんですって?」

「何て言ったの、今?」

 香穂子はわざと大きなため息をついてみせた。

 足が少し震えているようだ。

「だから、月森くんと別れることはできません、と言ったんです。月森くんが私のことを嫌いになるまで、・・・嫌いになったとしても、私は月森くんのことだけを好きでいますから」

「この間から何度も言ってるけど、あなたと月森くんとでは釣り合わないって言ってるでしょ?皆言ってることよ」

「じゃあその皆、連れてきてください」

「は?」

「皆言ってる、って言えば怯むとでも思いましたか?残念ながら、全校生徒から後ろ指差されようと私は月森くんを諦めませんし、そんなことさせない。そんな卑怯な言い方しかできない先輩方のほうがむしろかわいそうですね」

 香穂子を取り囲んでいた女子生徒たちの顔が怒りに染まった。

 これ以上は香穂子が危ない。

「なんですって・・・!」

 正面にいた女子生徒が手を振り上げた。


「そこまでだ」

気丈にも香穂子は手を振り上げられても顔を背けなかった。

「あ・・・」

 女子生徒が振り返った。最初に掴まれた手を見上げ、その掴んだ俺の腕をたどり、俺と目が合うなり顔が真っ赤になった。

「先輩方、そこまでにしていただきましょうか」

「あの、月森く・・・」

「彼 女の音楽を聴いたことがあるなら言わなくてもおわかりですね。俺に必要なのは彼女の音楽であり、日野香穂子という人間だ。その彼女を悪く言うの ならば俺の音楽も悪くなる。彼女を悪く言うならば、それは俺も同じということです。それに、彼女の音楽のほうが、先輩方のものより遥かに聴けるものだと俺 は思いますが。少なくとも、彼女はこんなことに好き好んで練習時間を割くようなことはしない」

 掴んでいた手を離した。力なく、ぱたりと崩れるように下がる。その掴んでいた所を小さく撫でさすった。

「失礼。力を入れないように気をつけたつもりですが」

「・・・いえ、大丈夫よ」

 行きましょう、と隣にいた生徒が言った。


「香穂子」

「月森くん」

 女子生徒達が行ってしまうと、香穂子が俺の腕を掴んだ。・・・震えている。

「この間から何度も、と聞こえたが。こういったことが何度もあるのか?」

 香穂子が無理矢理笑おうとして失敗する。それでもいつものように振舞おうとする。

「何度も、って言っても、時々だよ。コンクールの時のほうがもっとすごかったんだから」

 柚木先輩の親衛隊でしょ、土浦くんの隠れファンもいたからね、と努めて明るくしようとする香穂子の腕を掴んだ。

「え、月森くん?」

 とにかく練習室に入ってしまいたかった。


 バタンとドアを閉じ、鍵をかける。

 いつもなら少し汗ばむくらいの陽気だから開けておく窓も、締め切ったままにしておく。

「泣いていい、香穂子」

 カバンもヴァイオリンケースも置いて死角になる部屋の隅に連れて行き、香穂子を抱きしめた。

「こんなふうに君を苦しめるためだけに俺がいるわけじゃないだろう?それとも、君の辛いことも、楽しいことも、全てを君と分け合いたいと思っていたのは俺だけなのだろうか」

「・・・ごめんね、月森くん」

「君を責めているわけじゃない。こんなことが言いたいわけじゃないのに・・・」

 香穂子が小さく首を振った。

「月森くんに心配かけさせちゃって、ごめんね。でも慣れてるから平気だよ」

「慣れてるなんてことを言わないでくれ」

 足を震わせて、今だって崩れ落ちそうなほどだというのに。

 平気ならば、いつものように笑うことだってできるはずだ。それができないほどだというのに、俺にさえ「大丈夫だよ!」と笑おうとする。

「俺といるときくらい、頼ってくれ。・・・俺では頼りにならないか?」

 今度は大きく首を振った。

「月森くんに、こんなとこ見せたくなくて。いつも元気な私を見ててほしいから・・・」

「君は君だ、香穂子」

 たまらなくなって腕に力を込めた。おずおずと香穂子の手が背中に回る。

「君の楽しそうに笑う表情も好きだと思う。けれど、こんな時くらい、泣いても構わないんだ。気持ちを吐き出して、泣いてしまうといい」

 そうしたら忘れられる。また、いつもの君が戻ってくるだろう。

「こんなことで君を泣かせる為に俺といるわけじゃないだろう?」

 俺と付き合っていることであんなふうに取り囲まれるためだけに、俺といるんじゃない。

 辛いならそう言ってほしい。

 君が好きだから、分け合いたい。


「・・・う」

 嗚咽が漏れた。我慢しなくていいと囁くと「本当は怖かった」と吐露してくれた。

「香穂子」

 しばらく頭を撫でてやる。子どもじゃないと後で言われるかもしれないが、今は構わなかった。

「俺は君が好きなんだ。どこにいても、どんな時でも。君がいたから、俺も壁を乗り越えようと思えた。君は俺にそうさせたことを誇っていい」

 だから。

「君は、ずっと俺といるんだ」

 一緒にいてほしい。

 誰より俺がそう願っている。

「いいだろう?」

 頷いてくれと願う。頷いてほしいと祈る。


「・・・ん」

 小さく、頭が縦に動いた。もう涙は止まっているようだった。

「ありがと、月森くん」

 顔を上げた香穂子は、もういつもの彼女に戻っていた。

 

 

 

2010.9.23UP