今、精一杯の言葉を。

 私から、あなたへ。



あなたへ、私から

 





 今一番何が欲しいかと聞かれたら、きっと「時間」と答えるだろうと思う。
 結婚してウィーンにやってきて、自分の時間はそこそこできた。
 けれど、夫と過ごす時間が足りないと思う。
 月森の仕事はヴァイオリンを弾くことだから、仕事の依頼があれば世界中どこにでも行く。一週間だったり一ヶ月近くに及ぶツアーもある。一緒に行くことをしないから、寂しくてもついていくことはしない。・・・演奏先が日本である場合を除いては。
 そして、今もツアー真っ最中の月森が家を不在にして、一ヶ月。

「寂しいよう・・・」

 月森がいない間は、エージェントの人たちが様子を見に来てくれたり、食事に誘ってくれたりするから、日中は気が紛れるのだが。

「夜ってどうしてこんなに寂しくさせるのかな」

 ベッドに置いてあるクッションをぎゅうぎゅうに抱きしめながら、カーテン越しに照らされる月の光を見つめている。
 月森が帰ってくるのはあと二週間後。けれどそれもつかの間の休息でしかなく、一週間すればまた出かけていくのだ。

「ヴァイオリン弾こうかな・・・」

 アパルトマンの一室を防音にして、時間を気にせずヴァイオリンを弾けるようにしたのは最近のこと。月森の練習時間を作る為と、香穂子も同様にいつでも弾けるようにという二人の相談から決めたものだった。

「・・・よし」

 ベッドのスプリングの勢いを借りて、威勢良く飛び降りた。





 何を弾こうか少し迷う時は、スケールをやることにしている。
 悩む時間がもったいないというのもあるし、自分のコンディションもわかるから、自分の弾きたい曲と弾ける曲のマッチングができる。そうして浮かんできた曲は。

「カノン、にしようかな」

 もう少し技巧的なものでもよかったが、一番最初に思いついたからとカノンの楽譜を探し出す。

「あ・・・」

 楽譜の間から何かが滑り落ちた。
 拾い上げると、一枚の写真だった。
 高校の頃、音楽科棟の屋上でヴァイオリンを教えてもらっている風景を、天羽がファインダーに収めたものだ。
 確かこの写真を撮られた時に弾いていたのが、パッヘルベルのカノンだった。

「懐かしいなあ・・・」

 少し色褪せた写真には、過去の自分たちがいる。数年後の未来、よもや結婚してウィーンで暮らしているなど夢にも思わなかった。

「よし!」

 きっとこの写真を見たのは、何か意味があったのかもしれない。
 その意味を探るべく、ヴァイオリンを構えた。





 パッヘルベルのカノンは、ともすれば単調な曲として安易に捉えられがちだが、香穂子には弾けば弾くほど奥が深いと思っている。
 懐かしさを呼び起こすだけではなく、その単調なメロディの中に、少しの悲しさや希望を思わせるからだ。
 さまざまな感情の名前を呼び起こしてみて、今一番自分に合っていると思うものを探し出す。それは。

(優しさ、かな)

 過去の自分たちを見たからだろうか。
 懐かしいと思うことは思うけれど、それ以上に優しい気持ちが湧き上がってくる。
 未来を不安に思うことがなくなったからだろうか。
 この写真の自分に教えてあげられたらいいと思う。

(私は今、しあわせだよ)

 ヴァイオリンの技術だったり、月森への想いの行方だったり。
 不安なことが色々あった高校生活だった。
 けれどその不安な気持ちがなければ、きっと今の自分はいないだろうとも思う。
 それでも。

(私は、今とっても満たされてる)

 月森という伴侶がいて。
 海外での生活は時にストレスにもなるけれど、エージェントのスタッフが心配して何かと連絡をくれるから寂しい思いもあまりせずに済んでいる。
 日本が恋しくなれば、月森は日本にいてもいいと言ってくれている。・・・実際にホームシックで日本に帰ったことは今までにないのだが。それだけ月森との時間が、ウィーンでの時間が香穂子を満たしている証なのだろう。

 だから。
 月森が帰ってきたら、開口一番に伝えよう。



「私は今、とっても幸せだよ」



 あなたへ、私から。
 今言える精一杯の言葉を。

 

 

2011.4.4UP