| ご覧、全てが青になる。 |
結婚して、一度だけ月森の仕事についていったことがある。
自分にも何か手伝えることがあれば手伝いたい、という思いからの同行であったが、スタッフが全てやってしまう上に、月森の妻ということでもてなさ
れ・・・月森は気にするなと言ったが、香穂子にとってはこの一度きりで懲りてしまい、それからは近くであろうと顔を出すことがなくなってしまった。月森に
とっては淋しいと思わなくもないが。
「蓮のヴァイオリン、しばらく聴いてない・・・」
クッションに顔を埋めるようにして呟くその言葉を、月森は寸分違わず聞き取った。
「今度のオフに弾こう」
「ホントに?やった!」
嬉しそうに飛び跳ねる香穂子を、月森が苦笑しながら見つめていた。
「何やる?っていうか何弾いてくれるの?」
「君のお望み通りに」
次のオフ、という約束は果たされたがだいぶ待たせてしまったお詫びにと、月森は香穂子のリクエストを全て応えるつもりだった。
楽しみにしていたから、天気に左右されないようにと、一日だけスタジオを借りた。
きょろきょろと珍しそうにしていた香穂子も、次第にこの雰囲気に慣れてきたようだ。
手近な椅子に座って、小さな小さなミニコンサートが開かれる。
たった一人の為の。
「じゃあ・・・お任せで!」
人差し指をぴっと立てて少し首を傾げる。てっきりあれもこれもと言われるかと思っていた月森が、目を見開いて「いいのか?」と聞き返した。
「え、なんで?」
「・・・いや、君がそれでいいのなら」
しばらく頭の中で選曲しているのだろう、左手の人差し指でヴァイオリンをトントンと軽く叩き、すぐに構えた。
香穂子の為に奏でられる楽曲は、いつも優しいものだ。
超絶技巧を駆使したものも聴かないではないが、彼女が望むものを与えたかった。
いつものように、最初だけ月森をじっと見つめ、次第に目を閉じる。
そんな彼女の様子に、自分も目を閉じてみた。
寄せては返す波。
波音に耳を澄まし、瞼に降り落ちてくる陽の光。
音もなく吹き抜ける風が二人を包む。
そうして見上げた先には。
(・・・蒼)
どこまでもどこまでも続く、空。
いつか二人で見上げた空は、二人を引き裂くものでしかなかった。
けれど、引き裂いてなお在り続けるその姿に、どうしようもなく焦り、諦め。・・・望んだ。
その空を、二人は思い描く。
ウィーンの空を、日本の空を、・・・二人が孤独であった頃の空を。
また月森の奏でる音楽が包んでいく。
(見るといい、香穂子)
二人の世界を包むその色を。
全てが・・・蒼になる。その一瞬を。
2010.12.24UP