アヴェ・マリア

 




 時々、思う。
 あの時練習室棟の周りをうろうろ歩いていなければ。
 彼が練習室にいなければ。
 私はきっと、彼が奏でる透明な音色を知らずにいたのだろうと。





「君は余程この曲が気に入っているんだな」

 リクエストは何がいいかと聞かれると、大概「アヴェ・マリア!」と答えてしまう。
 一番最初に聴いたヴァイオリンの音だからというのもあるんだと思う。
 でも何よりも、私は「月森くんが弾く」アヴェ・マリアが好きなのだ。
 超絶技巧を駆使した曲を得意とするけれど、本当は少し物悲しい音楽が好きな人。
 本当の月森くんを見ることができるから。

「思い出いっぱい詰まってるからね」

 それもあるけど本当のことを言うのは恥ずかしいから誤魔化してみる。そんなのはとっくにお見通しなのかもしれないけれど。
 仕方がないなとでも言いたそうに小さく嘆息して、ヴァイオリンを構えた。



 シューベルトのアヴェ・マリア、と一般的には言うけど、「エレンの歌第3番」というのが本当の曲名だと知ったのはコンクールの後。宗教音楽でもないというのも、この時初めて知った。
 コンクールのエントリーシートに「シューベルトのアヴェ・マリア」と書いて提出した時に何も言われなかったから、てっきりそれが普通なのかと思っていた。
 月森くんとふとした拍子にその話になって、本当は「エレンの歌第3番」ていうことを知った。
 
「合宿で合わせた時は、鳥肌立ってたんだよー。すっごく嬉しかったんだ」

「嬉しい?」

 勝手に人の演奏に音を重ね合わせた非を問われるのかと思っていたらしい月森くんが、意外そうに私を見下ろした。

「うん、嬉しかった。いい音が出たことも嬉しかったけど、月森くんとあんなふうにヴァイオリン弾けたことが嬉しかったよ」

 無言で見下ろす月森くんに、えへへと笑いかけてみる。

「俺も、あの時・・・何故人の音楽に自分の音を重ねる無礼をしたのかわからない。けれど、君と弾くアヴェ・マリアならば、きっといい音楽になると思った・・・んだと思う」

 自信なさそうに言う月森くんが可笑しい。

「今度は私も一緒にいいかな?」

「もちろんだ」

 開け放した練習室の窓から、秋の風が吹いていた。

 

 

 

 

2010.12.22UP