どこからともなく聴こえる、微かな、消えそうに小さなその旋律を。
 俺は。




メロディー(旋律)

 




 曇り空。
 こういう日はヴァイオリンの響きが良くない。
 練習室はいっぱいだし、俺の自室でなら空調管理もできているからと、放課後早々に学校を出た。





「お邪魔しまーす・・・」

 いつも、彼女は少し首をすくめて、申し訳なさそうに入ってくる。
 気にするなと言うのだが、香穂子いわく「雰囲気が凛としてて、私が入るのが悪い気がする」と言うのだ。自分の家だからあまりそういうことはわからないが、俺が香穂子の家にお邪魔した時に感じた緊張感に似ているのだろうと思う。

「譜面台はそちらを使ってくれ。俺は下から持ってくる」

「うん。ありがとう」

 ジャケットを脱ぎ、ついでにタイも外す。少し窮屈に感じるシャツのボタンを2つほど外して部屋を出た。
 譜面台を取りに行くついでに、何か飲むものが必要だろうと思ってキッチンに入ると、意外なことに母がいた。

「・・・お母さん。帰ってらしたんですか」

「お帰りなさい、蓮。ついさっき戻ってきたんだけど、すぐに出るわ。着替えを取りに来ただけだから」

「・・・そうですか」

「あら、寂しい?」

「子どもじゃあるまいし。お気をつけて」

 ありがとう、と母がにっこり笑う。その笑い方が、何かひっかかる。

「・・・何か?」

 俺が何かを感知したことに少し目をみはる。すぐにいつもの笑顔に戻って「何でもないわ」と言った。

「お友達を連れてきたの?」

「・・・はい。学校の練習室がいっぱいだったので」

「そう」

 母の言いたいことはこれか。

「その懸念は不要です。・・・俺も少し軽率でした」

「いえ、あなたのことを信用しているわ。くれぐれも、向こうの親御さんの信頼を裏切ることのないようにね」

「はい」

 飲みかけのカップを一気に飲み干し・・・急いでいるらしい・・・「じゃあ行ってくるわね」と立ち上がった。

「・・・蓮」

 黙って立っていた俺に、ドアを開けながら母が振り返った。

「あなたたちの事は知っているつもりよ。真剣だっていうこともね。別に、あなたたたちのことを悪いと言ってるんじゃないわ。私も父さんも、応援しているのよ」

「・・・知って・・・」

 ふふ、と母が少女のように笑った。それが、似てもいないのに香穂子のそれに重なって、心臓がドキリとする。

「どういうお付き合いをしていても構わないわ。貴方がそれでいいと思ったのなら。だけど・・・」

「先ほども申し上げましたが、その心配は無用です。・・・遅れますよ」

 あらそうだったわとのんびり呟いて「行ってきます」とドアを閉めた。ぱたぱたと足音が遠ざかる。





 両親は、俺と香穂子のことを知っていたのか。
 そして、今、どれほど深く想っているのかさえ。・・・その「深さ」を、知っていると・・・母は言った。

「まさか知られていたとは・・・」

 半ば呆然としながら、自室へと戻る。
 コンコンとノックをしてドアを開けた。

「香穂・・・」

 漏れてくるはずのヴァイオリンの音色が聞こえてこない。
 その代わりに。

「・・・?」

 消えそうに、小さな、儚いメロディ。
 香穂子が何かを口ずさんでいる。
 何の曲かわからないほどに小さなその旋律は、何故か俺の心に深く突き刺さった。

「あ、月森くん、お帰りー」

 月森くんの部屋なんだからお帰りじゃないかと舌を出して笑う。いつもの彼女がそこにいた。

「ヴァイオリンは?」

 うん、と指差すさきのヴァイオリン。一応取り出してはあるようだ。

「・・・えっと・・・その。ちょっと、ここがわかんなくて」

 楽譜を見ていたのだと譜面を持ち上げた。

「・・・どこだ?」

「うんとね・・・」

 彼女が変わらない態度でいようとするのなら、俺もそうしているべきだろうと思ったから、普段通りに過ごす。
 もしかしたら、あの口ずさんでいること自体が無意識だったのかもしれないから。





「遅くなってしまったな」

「うーん、まあ大丈夫だよ」

 学校の最終下校のチャイムがいつもは知らせてくれるのだが、今日はそれがない。
 二人で時間を忘れて練習に没頭してしまったら、すっかり遅くなってしまった。

「ご両親に謝らなければならないな」

「え、ええっ?!いいよ、そこまでしなくて」

「しかし・・・」

 むしろこんな遅い時間まで男の子の家にいた事に、うちの親は怒ると思うから。
 申し訳なさそうに告げた香穂子の言葉で気付いた。
 俺も、香穂子も、まだ学生なのだ。
 異性の家に遅い時間までいるということがどういう懸念を生むのか、あまり深く考えていなかった。考えないようにしていたのかもしれない。いずれにしても、俺のほうがもっと気をつけるべきだったのだ。

「・・・すまなかった」

「ううん、時間に気付かなかったのはお互い様だし。時間を気にしなくて済んだおかげで、思う存分練習できたから大丈夫!」

 だから本当に気にしないでと香穂子が手をひらひらと振った。



「本当に大丈夫か?」

「平気平気。言い訳のレパートリーなら任せて!」

 舌を出して笑う。

「後で電話する」

「うん」

 じゃあねと手を振って、香穂子が玄関の向こうへと消えた。
 しばらく立ち止まっていたのだが、不審そうに見ながら通り過ぎていく人の視線に気付いて踵を返す。





「・・・あのメロディ」

 どこかで聴いたことがあるような気がする。
 それがすぐに思い出せなくて、しばらく考えるがどうしても思い出せない。
 香穂子が口ずさんでいたあの曲。
 今練習している楽譜にはないフレーズなのはわかっていた。
 その曲に、彼女が想う何かが隠されているような気がして。
 結局、俺の家に着いても、思い出すことができなかった。











ヒトリゴト。(ブログより

何の曲かはご想像にお任せします(おいおい

2010.11.21UP