奏でる愛しさ

 




 そこにいた姿を見て、月森は動けなかった。



「・・・日野」

 いつからそこに、と言いかけて口を噤んだ。
 泣いている。
 ただ静かにぽろぽろと涙を流すその姿に、何も言えずに立ち尽くす。
 香穂子は月森の存在に気付かない。
 話しかけようかどうか逡巡して。
 背を向けた。

「誰?」

 靴音で気付いたのだろう、香穂子が誰何する。
 月森は立ち止まって、香穂子のほうへと向き直った。

「すまない、邪魔だろうと思って・・・」

「ううん、大丈夫。気にしないで」

「しかし」

 大丈夫だから、と隣に座るように手で示す。
 少し迷って、月森は隣に腰をおろした。



「その・・・どうかしたのか?」

 涙の理由まで聞こうとは思っていない。けれど、何か落ち込んでいるなら元気になってほしい。
 そんな思いで問うた言葉は。
 返事が返ってこなかった。

「何があったのかは聞かない。しかし、君にいつもの元気がないと、勝手が狂う」

「・・・何でもないといえば、何でもないことなんだけど」

 月森は無言で続きを促した。

「ヴァイオリン、どうやって弾いていいのかわかんなくなっちゃって。楽しく弾いてればそれで良かったんだけど、楽しいって・・・どういう気分だったのかな・・・って」

 最近音が変わったことと何か繋がりがあるのだろうとは思うが、何があったのかはわからない。けれど。 
 香穂子の特権ともいうべき元気のいい音楽を、どうやったら聴くことができるだろう。
 月森が思うのはただそれだけだった。

「日野、これから時間はあるだろうか」

「え?うん、・・・大丈夫だけど」

「来てくれ」

 月森が立ち上がった。





 練習室に入るとすぐに、月森はヴァイオリンを取り出した。

「・・・・・・」

 ヴァイオリンを構えたまま何か言いたそうに口を開きかけ、結局引き結んでしまう。
 小さく息を吐いて。
 弓を下ろした。



「・・・これ」

 ショパンの別れの曲。
 前回のコンクールで弾いた曲だ。
 これで最後じゃない。
 ここから始まるんだと。
 そう誓って弾いた曲。
 ヴァイオリンを奏でる愛しさを、胸いっぱいにして挑んだセレクションだった。

「ああ・・・」

 月森の奏でるそれは、セレクションで香穂子が弾いたものとは違う。
 けれど、いつもの月森だったらそうは弾かないであろう解釈を、香穂子なりに受け取れたつもりだった。



 ヴァイオリンのことで泣くのはこれで最後にしよう。
 だから、今だけ。
 そうしてはらはらと零れ落ちる涙を、月森は。

(・・・綺麗だな)

 自分の音楽で彼女を励ますことができればいい。
 ただそう思って奏でた「別れの曲」。
 あと数日で開かれる最終セレクションを、今まで戦ってきたライバルとしてではなく、一人のヴァイオリニストとして共に迎えられるように。
 
(君の涙を見るのはつらいから)

 だからヴァイオリンを弾く。
 この曲が終わったら、きっと彼女の笑顔を見られると信じて。

 

 

 

2010.11.24UP