うたかたのように

 




 朝から雨だというのに、新妻は楽しくて仕方がないらしい。
 寝起きの悪い月森を起こすのに四苦八苦するのも、楽しいのだと笑う。

「ヴァイオリンも弾かない、本も読まない、譜読みもしない。・・・珍しいね?」

「今は君を眺めているほうがいい」

「私見たって楽しくないでしょ」

「いや、俺にとっては楽しいが」

 またあ、などと笑って・・・少し頬が赤い・・、畳んだ洗濯物をぱたぱたとスリッパの音を響かせながら持っていく。

「雨だな」

「えー?何?」

 何でもない、と少し大きな声で返して、また外を見る。

「・・・雨、か」

 

 

 煙るような霧雨だった。
 湿気は楽器全般に対して勿論だが、人間にもあまりいい気はしない。
 前の講義が少し長引いてしまって、月森は急いでいた。
 講義棟から中庭を突っ切って練習棟を抜けて。
 そうすれば次の実技講義には間に合うはずだった。

 月森がそこで足を止めさえしなければ。

 


「・・・?」

 誰かに呼ばれたような気がして立ち止まる。周囲を見回しても、皆足早に建物の中へと移動している。こんな霧雨の中を、誰も好き好んで出歩く人間はいない。
 気のせいかと足を踏み出すと、また。

「・・・霧で見えないだけか?」

 よく目を凝らして、建物の影からじゃないか、林の近くではないか、少し遠い所まで見ようとするが、視界が悪くてなかなか見えない。
 見えないものは仕方がない。自分は一度足を止めたのだし、もし何か言われたらそれを言い返してやればいい。そう思い直して練習棟へと急いだ。
 やがて、中庭に静寂が訪れた。

 




「よし、いいだろう」

「ありがとうございました」

 軽く一礼して自席へと戻る。
 珍しく時間通りに終わった実技の後は昼食だ。また中庭を抜けていかなければならない。
 足早に月森の横を通り過ぎていく学生たち。一方、月森は自分のペースを崩さずに前だけを見て歩く。
 中庭は、晴れていれば学生たちがキャリーアウトしたランチを広げて音楽談義に花を咲かせているのだが、今日は誰もいない。きっと構内のカフェや外に出たのだろう。
 あまり外を出歩きたくないから、構内のカフェで手早く済ませることにして、中庭へと出た。

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

 

「・・・?またか?」

 耳を澄ませてみる。

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

 

 よくよく聞いてみると、声ではなく「音」なのだった。
 しかしこうも広い構内で、微かにしか聞こえない音の出所を探すなど難しい。
 しばらくその音がどこから聞こえてくるのかを探るように立ち尽くしていたが、諦めて歩き出そうとした時だった。

「・・・音が・・・」

 僅かだが、中庭の奥、林の中から聞こえてくるのがわかる。こんな雨の中で楽器を奏でるなど、音大生としてあるまじき行為だ。注意するべきかと足を向けた。

「誰かいるのか?」

 音が止んだ。
 再度誰何するが返答はない。

「誰か知らないが、こんな湿気の多い時に楽器を弾くことはするな」

 そう言い置いて背を向けた。

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

 

 だから・・・!と振り向いて、月森ははたと気付く。
 ・・・この音、どこかで聴いたことがある。
 懐かしいような、優しい、その音色を。

「俺は、知ってる・・・」

 呆然と呟いた。

 

 ヴァイオリンの音色。か細く、ともすれば消えてしまいそうなほどの、小さな音。
 けれど、聞き違えることはない。

「・・・香穂子?」

 言ってから、まさか、とすぐに打ち消す。彼女がここにいるわけがない。ましてや、こんな霧雨の中で楽器を弾くなど、そんな馬鹿なことはしない。
 そんなことは、あるはずがない。
 ヴァイオリンの音色はまだ響いている。集中して聞かなければ霧雨のさあっという音にかき消されてしまうようだった。
 何を弾いているのだろう。伸び伸びとしたこの音は、確かに香穂子のものだ。
 でもまさか。

「有り得ない」

 どうして彼女の音が聞こえるのだ。日本にいるはずの香穂子が、ここにいるわけがない。彼女は自分が在籍している大学の名前を知らないはずだ。
 ならばなぜ、今にもかき消えそうな音で、彼女のヴァイオリンが聴こえる?
 幻聴であるというには、月森の耳は敏い。けれども、彼女の音だと断じるには、信じられなかった。

 


 ヴァイオリンは歌う。
 小さく、細く、けれどその意思を月森に伝えるために。
 離れ離れの想いを、その音と同じように細い糸で繋ぎ合わせるために。

「香穂子・・・」

 霧雨の中、一瞬のような、泡沫のような出来事だった。

 

 

「・・・ん、れーん!」

 間の前に香穂子が心配そうに覗き込んでいた。

「もう、呼んでも返事しないからびっくりしたでしょ!」

「あ、ああ・・・すまない」

 外は真っ白にガスがかかり、視界は最悪に悪い。時折車が通り過ぎる音が聞こえる。

(結局あれは、何だったのだろう)

 今の今まで忘れていた。不思議な経験をしたものだと、今更ながらに思う。

「香穂子」

「なあにー?」

 昼食の支度をしているのか、キッチンから声が聞こえた。ダイニングへと移動して、椅子に座る。

「3年・・・いや、4年ほど前に、ウィーンに来なかったか?」

「へっ?」

 その頃は大学にいて、ヴァイオリン漬けだった。良くも、悪くも。

「パスポート申請は学生の時にさせられたけど、一回も使ってないよ。海外のコンクールに出なかったし」

 だから香穂子のパスポートの一番最初のページには、結婚後初めて入国した際のスタンプが押されている。

「どうして?」

「・・・いや、何でもない」

 パスポート持ってこようか?と言う香穂子に「いや、いい。すまなかった」とだけ返して、また黙り込む。

「何があったの?何か心配事?」

 思い切って話してみる。すると香穂子が意外なことを言った。

「あー・・・、多分それ、リリじゃないかな」

 懐かしい名前を聞いたものだ。いたずら好きなファータ。もう見ることはないけれど。

 香穂子いわく、大学在学中に行われた高校のコンクールを聞きに行った際に、リリが見えたのだという。

「ヴァイオリン弾けってうるさいから、一度だけ弾いたことがあるのよね」

 コンクールを聴いた後だからだろうか、懐かしい想いだけで弾くことができた。その後に月森を思い出して激しく落ち込んだのだが、それは黙っておく。

「ちょうどその頃だったような・・・気が、する・・・」

 うーんと唸りながら思い出そうとする香穂子にくすっと笑うと「そこで笑う?!」と頬を膨らませた。

「いや、すまなかった。・・・もしかしたら、リリが届けてくれたのかもしれないな」

 香穂子の音色を。
 いつか学園に行くことがあったら、もう見ることのない彼らにお礼を言おう。
 あの細い糸のような音は、途切れることなく繋がっていたと。
 彼らのおかげで、今こうして幸せの中にいることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒトリゴト。

 やるまいと思ってたネタを・・・やってしまった・・・orz

 

2011.5.25UP