| Ich frage es wieder. |
「本当に、いいんだね?」
「はい教授。・・・院には、行きません」
授業を放り出して日本に帰り、一週間程でウィーンに戻れば、静かに怒った教授が俺を待ち構えていた。
「私の授業を休んでまで日本に帰った理由は何だね」
「・・・かつて、幸せだと。そう思っていた頃の音を取り戻す為に」
「・・・ほう?」
怒りよりも興味が湧いたらしい教授が、ニヤリと笑った。
「聞かせてもらおうか」
一通り話し終えると、なるほどね、と教授が頷いた。
「つまり君は永遠のスパイラルから抜け出せたわけだ。それは、おめでとうと言うべきかな」
「・・・ありがとうございます」
「しかし、君の音を聞いてみないことには、完全に納得できたとは言い難い」
それならばとヴァイオリンを構えると「まあ待ちなさい」と手で制された。
「君はその女性に何を求める?」
「・・・安寧を」
「・・・いいだろう、弾きなさい」
下ろしかけていたヴァイオリンを肩に乗せた。
アヴェ・マリア。
君と出会った時に弾いていた曲。
君と一緒に初めて合わせた曲。
君が好きだと気付かせてくれた曲。
君を置いていくことを決心した、曲。
「まだ少し感情の揺れがみられるようだが」
こほん、と一つ咳払いをして、教授が言った。
「もう一度聞くよ。・・・院に行く気はないかね?」
「いえ、お言葉ですが。今のでおわかりいただけたはずです」
教授が黙った。
「惜しい気もするがね。君がそう言うのならば、そうしたらいい」
「・・・はい」
それじゃあまた明後日。
そう言って教授が立ち上がった。
「レン」
ドアを開けて、教授が振り返る。
気難しいこの教授のあだ名が「無笑の微笑みで奏でるヴァイオリニスト」というのを何となく思い出した。
「君の音は、まだまだ技術に頼りがちだ。だけれども、感情を音に乗せることができさえすれば、君の音は世界が求めるだろう。もう少し感情のコントロールが必要だが、それは年齢と共に安定してくるはずだ。・・・頑張りなさい」
パタンと閉められたドアの向こうで「今まで一番最悪な教え子に出会ったものだ。この私の勧めを断るとはね」と聞こえた。
それは、教授なりの賛辞なのだろうとわかるから、最悪だと言われても頬が緩んでしまう。
「俺も、いい教授に教えていただけて、嬉しいです」
素直に口にしてみた。きっとドアの向こうの人物はもういないだろうけれど。
院を出てから香穂子と結婚することも考えたし、在学中にとも考えた。
けれど、彼女が俺の傍にいてくれることが俺の音楽をこの上なく深いものにしてくれるならば、院で学ぶ必要がないように思えたのだ。
何度も自分に問い、何度も答えを迷ったけれど。
でも今は後悔していない。
君と、これから共に歩む人生を。
再度問わなくとも答えは自ずと導き出されるのだから。
ヒトリゴト。
言葉の意味は「再度問う」だそうです。
2010.11.27UP