appasionato 〜サボタージュ〜

 




 月森がウィーンへ旅立つまで、あと数日となった、ある日の朝。
 いつものように香穂子の家に迎えに来た月森は、門扉の前で呆気に取られていた。

「・・・制服はどうした?」

 おはようも何もきれいさっぱり消え去って、私服姿で立つ香穂子に問いかけた。

「おはよう、月森くん。制服?そんなの着ていかないに決まってるじゃない」

「学校は?」

 もしかして、いやまさかという疑問というよりほぼ確信に近い言葉が月森の脳裏に浮かぶ。そしてそれは的中するのだった。

「もちろん」

 香穂子の満面の笑みで。



「サボるんだよ!」







 日野家の人間は朝から誰もいないから、やるなら今日しかないと思っていたのだと、月森家へと引き返しながら香穂子が笑う。
 学校とは反対方向へ歩く二人を、すれ違いざまにいぶかしそうに見る人もなくはないが、注意されることはない。
 なんとも居心地の悪い視線など気にせずに、香穂子はずんずんと歩く。

「どこに行こっか」

 突然の出来事に月森はまだ追いつけない。
 ただ香穂子の数歩後ろを無言で歩くだけだ。

「月森くんの行きたいところはある?」

「・・・海へ」

 ようやく搾り出した一言に、香穂子が満足そうに頷いた。







「うーみーだー!」

 私服に着替えて、電車に乗って。
 制服姿で電車に乗る学生がまだいるのに、自分たちはサボタージュして海に来ている。

「楽しもうね、月森くん!」

 もうここまできたらとことん香穂子に付き合おう。
 開き直ってしまえば、月森の微笑みも少し和らぐ気がした。




「・・・貝殻」

 小さな、白い貝殻。いつだったか拾おうとして月森に止められたのだ。物凄い勢いで怒られて。

「おっかなかったー」

「・・・すまなかった」

 もういいよと明るく笑う香穂子との距離が近い。

「確かに軽率だったもの。あれから注意するようにはしてるけど、でもまだ自覚が足りない時はあるかな」

 月森と違って、香穂子は女の子だ。家事を手伝うこともあるし、普通の生活を送る以上、指にある程度の負担をかける場面も多々ある。ヴァイオリンを弾くよ うになってからは周囲も気遣ってくれるようにはなったけれど、月森からみれば充分ではない。以前より少しマシになっているという程度だ。それでも注意して いるというだけでも香穂子は変わった。

「そうやって指を気遣うことができるようになったのなら、今はそれでいい。普通科にいる以上は仕方ないだろう」

 卒業したら劇的に変わるわけでもないだろうが、進路によってはもう少し気遣える。

「君は高校を卒業したら、どうするんだ?」

 聞きたくても聞けないでいた、香穂子の進路。
 話の流れではおかしくないだろうとは思っていても、少し緊張する。
 ヴァイオリンをやめてほしくない、続けてほしいからこそ緊張するのだ。

「まだちゃんと決めてるわけじゃないけど・・・」

 漠然と、何となく思っているだけで。
 口にしたらそこで決まってしまうような気がして。
 そこまで覚悟ができているわけじゃないから、言葉に出すのが少し怖いのだと。

「・・・そうか」

 決定的な言葉が聞けなかったことは残念だけれど、きっとヴァイオリンを続けていくという気持ちはあるのだろう。だから迷うのだ。続ける気持ちがなければ、こんなふうに言葉に出すことを怖がらない。

「待っているから。君がヴァイオリンの腕を磨いて、いつかまた一つの音色を奏でられる日がくることを」

 香穂子は返事をしない。
 海を・・・地平線を・・・見つめて、冷たい風になびく髪を手で押さえている。
 二人の間に下りた沈黙。
 ただ波の音が二人を包んでいる。



「月森くん」

 唐突に香穂子が振り返った。真剣な眼差しで。

「今はまだ言えない。そこまで自信がないから。でも、・・・でもね。私も、おんなじだから」

「そうか」

 いつか二人で、また一つの曲を奏でられたらいい。
 数日後には訪れる別離も。
 その希望があれば耐えられるような気がした。



 二人でヴァイオリンに対する情熱を共にする限り。
 いつか交わるであろう道に向かって、それぞれの道を歩き始める。
 交わらないかもしれない。
 でもきっとまた出会えると信じているから。












ヒトリゴト。(ブログより

アパッショナート、情熱的に、という意味だそうです。
ヴァイオリンに対する情熱、ということで書いてみました。
ちょーっと消化不良かなあ・・・

 

 

 

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