| espressivo 〜君の赦しを〜 |
「あ、あれ?」
ぐるりと視線を巡らせて、意外と近くにあったその瞳とばっちり目が合った。
「・・・香穂子」
盛大に吐いたため息が、香穂子の髪を撫でた。
「だから、あの・・・その」
「・・・・・・」
腕組みをして渋い顔をしている目の前の恋人は、さっきから黙ったままだ。
言い訳をしようとしているのだが、言えば今以上に月森の周囲の温度が下がるとわかるから、言い出せない。
「・・・ごめんなさい」
「俺が下にいなかったら、指を怪我していたかもしれないんだ。・・・もっと自覚を持って欲しいと常々言っているはずだが」
「うん、ごめんなさい」
さっきから香穂子の口からは「ごめんなさい」しか出てこない。
一つ嘆息して、腕組みを解いた。
「木の上に上るなんて、子どもじゃあるまいし。何故上ろうとしたんだ?」
自分も怒りすぎだろうかと・・・この辺が天羽あたりに言わせると「香穂子に対しては甘すぎる」と言われる所以なのだろうが自覚はない・・・少し気持ちを変えて問いかけてみた。
「・・・が・・・」
「すまない香穂子、もう一度言ってくれないだろうか」
「楽譜があったの」
一瞬他人の楽譜を取ろうとしていたのかと理解しそうになり、そうじゃないことに気がつく。
「木陰だし、カバン置いてても大丈夫だろうと思って」
購買に飲み物を買いに行っている間に、誰かがカバンの上に置いた楽譜を木の上に隠したらしい。
森の広場ですれ違いざまに香穂子を見ながらクスクスと笑う数人の男女を見た。嫌な予感がして走って戻れば。
「楽譜、クシャクシャ・・・」
自分の楽譜だからいいけれど。
それを聞いた月森は、隠した音楽科の生徒たちに明らかな怒りを覚えた。
さっきは気丈に振舞おうとしていたのが、自分のせいでごめんなさいしか言わなくなり、とうとう涙を浮かべて泣き出しそうになっている。
「ごめんね、月森くん」
「何故君が謝る」
「だって、怒ってるでしょ?私が木の上に上ろうとしたこと」
いくら自分の楽譜とはいえ、月森を呼べば良かったのかもしれない。月森でなくても、誰かに取ってもらえば良かった。
「・・・もういい、過度な態度を取った俺も悪かった。君の理由を聞かないまま叱責するような真似をして・・・」
ううん、と香穂子が勢いよく首を振った。
「私が気をつけてれば良かったんだもの。まさかこんなことされると思わなくて」
学内コンクールの時はそれなりに嫌がらせめいたことや言葉で言われたこともある。最近は落ち着いてきたから油断していたのだ。
「ホントに、ごめん・・・」
「だからもういい、香穂子。それ以上謝らないでくれ」
二人の間に気まずい空気がまとわりつく。
結局練習できないまま・・・香穂子の精神的ダメージが大きくて月森がやめようと言ったのだ・・・学校の校門を潜り抜けた。
こんなに明るいうちに帰るのは久々で、あんなことがなければ今も練習できていたはずだったのに、なんて思ってしまう。
「あっ、いたいた!日野ちゃーん!」
ボリュームのあるウェーブをざっくりとひとつにまとめ、取材だ何だと駆け回っている天羽が駆け寄ってきた。
「・・・天羽ちゃん」
月森もつられて振り返り、一瞬嫌そうに顔をしかめたのだが、天羽の様相に驚いた。
「どうかしたのか?」
「ようやく見つけた!良かった帰る前に会えて!」
「どうしたの?」
息を整えている天羽をしばらく待ってやる。
「あのね、日野ちゃん、さっきのことだけど」
「え?・・・うん・・・」
そのせいで自分たちはこうして帰途につく羽目になったことを思い出し、また涙が出そうになる。涙目になった香穂子に「あああゴメン」と手を合わせて頭を下げた。
「ううん、天羽ちゃんが謝ることじゃないもの」
「でも嫌なこと思い出させちゃって・・・」
いいの、と小さく呟いた。
「で、これ」
首からぶら下げているトレードマークのカメラ。
の他にデジカメを差し出した。
「隠してるとこ、たまたま見かけたの。で、それ撮っておいたから。本人たちには見せてあるよ」
「・・・見せたの?!」
涙目のまま驚いて叫ぶと「何事か」と言いたげに生徒たちがじろじろと視線を寄越す。
咳払いして誤魔化し、「・・・で?」と小声で問い直した。・・・小声の必要もないのだが。
「一応、ね。何かあった時の為に証拠として取っておくけど、って言ったら」
「・・・天羽ちゃん、強い・・・」
「まあ任せといて、っていうのは置いといて!」
「それで?」
黙っていた月森が口を開いた。
「本人たちは何て?」
「・・・脅迫するのかって逆切れされちゃったー」
あははとあっけらかんと笑える内容ではない。にも関わらず、天羽は敢えて何でもないことのように言ったのだと月森は気がついた。天羽なりの、香穂子への気遣いなのだろう。
「ちょ、っと・・・天羽ちゃん」
「だーいじょうぶ!脅迫するんならもっと精神的にくるようにやるからって言っといたから!」
そうじゃないだろうと二人で同時に突っ込みたい気持ちを抑えて、その代わりにため息を。
「まあ一応楽譜クシャクシャにしたことは悪いと思ってるみたいよ。それだけでも許してあげられない?」
「許すも許さないも」
意外な言葉が香穂子の口から出てきた。
てっきり「許すまじ」とでも言うかと思っていたのだ。
月森も少し驚いた表情で、隣にいる香穂子を見下ろした。
「かわいそうな人たちなんだよ、あの人たち。言葉で面と向かって言うのが怖いから、こういう卑怯な手段でしか自分の気持ちを出せないんだもの。だから、いいんだ」
「・・・香穂子」
「・・・日野ちゃん」
さっきまで涙を浮かべて今にも泣き出しそうだったというのに、どこか冷めた、うつろな瞳を、どこを見るでもなく見ている。
表情のないそれは、香穂子の心痛さを物語っているようだった。
「もうやらないだろうし。こういうこと何度もする人って、よっぽど心がない、かわいそうな人なんだよ。きっとあの人たちはこれで懲りたと思う。だから、もういいの」
ありがとねと少し痛々しさを残した笑顔。
天羽も月森も、何も言えなかった。
それじゃあ明日と。
いつものように香穂子が玄関のドアを閉めるのを静かに待つ。
パタンと閉まるはずのドアを開け放したまま、唐突に香穂子が踵を返した。
「香穂子?」
たったかと足早に月森の下へ戻ってくる。目を見開いたままその様子を見ている月森に少し笑う。
「月森くん。・・・あの」
何かを口に出そうとして俯く。さらりとした髪がこぼれた。
意を決して顔を上げた頃には、月森も静かに待っていてくれた。
「今日は、ありがとう。それと、ごめんね」
「もう謝るなと・・・」
ううんと首を振る。続きを言いかけた唇を引き結んだ。
「色々。私が悪いところもあるから。だからごめんて言いたいの。これからは気をつけるから」
「・・・ああ」
「気をつけてね」
「ああ、ありがとう」
それじゃあ、と月森が門扉を開けようと手をかけたところで、香穂子が何かまだ言いたそうにしていることに気付いた。
「まだ何かあるのか?」
「・・・・・・」
少し顔を赤くして、もにょもにょと口ごもる。聞こえなくて身をかがめるのと、香穂子が顔を上げるのが同時だった。
「!!」
「!!」
思わぬ至近距離に、かっちりと目を合わせたまま逸らせない。
お互いの吐息がかかるほどの距離で見つめあう。
驚きが通り過ぎてしまえば、今度は可笑しさがこみあげてきた。
「・・・香穂子」
「月森くん」
香穂子が目を閉じるのと、月森がその指を後頭部にかけて自分のほうへ引き寄せるのがほぼ同時。
ちゅ、と音を立てて離れた唇の、お互いの熱にどこかぼうっとしながら、香穂子は月森を見上げた。
「・・・そんな顔をするな、香穂子」
うっとりと、艶めいた表情で見つめられたら、自分でも知らない何かの線が、音を立てて切れそうだから。
「君を抱きたくなる」
「! そんなこと・・・」
そんなつもりで見ていたわけじゃない。でも月森がそう言うのならば、そうなのかもしれなかった。
「でも今日はダメ!」
小さく叫んだ拒絶の言葉に、月森が少し残念そうに身を起こした。
「そんな顔しても、ダメですー」
尖らせた唇を、すかさず奪って「それじゃあ、また今度」と背を向けた。
「これ以上は俺が持たなくなりそうだから」
また明日、と。
心からそう言っているとわかる、優しい微笑。
そうして遠ざかっていく足音を、香穂子は顔を真っ赤にして聞いていた。
「ま、また今度って・・・何?!」
何のこと?!と一人で騒ぐ声を背中で聞きながら、月森は頬を緩ませた。
君は彼らを赦す。
俺の、君が欲しいという想いも、赦してほしい。
それは、君を想えば当たり前に湧き上がる気持ちなのだから。
ヒトリゴト。(ブログより
ESPRESSIVO エスプレッシーヴォ 表情豊かに、という意味だそうです。
まさしく色んな表情をしてもらおうと頑張ったら・・・長い・・・(すみません
ちなみに、サブタイトルは(ホントはつけちゃいけないと思うのですが)いつもその時に思いついた言葉を書いています。
2010.11.19UP