誰もいない教室でする口づけ




 教室に行ってみたい。
 そんな月森の些細な我侭の為に、二人は放課後の学校にいる。
 普通科棟に足を運ぶ事は何度もあったけれど、香穂子が普段の日常をどんな所で過ごしているのか知りたくて。
「見ても何にもないよ?」
「いいんだ。君が普段過ごしている風景を見てみたかっただけだから」
 音楽科とは違う雰囲気。
 香穂子の席に座って黒板を見る。
 黒板の脇に張り出されているタイムテーブルは、当然だが音楽科とは違う。
 こんな科目を学んでいるのかと、月森はしげしげと眺めている。
 今日のタイムテーブルを見ると、3時間目に体育があった。
「今日の3時間目は体育なんだな」
「ああ、うん。ハンドボールなんだ」
「・・・女子もなのか?」
 そうだよと頷きかけて、月森の問うている真意に気付く。
「指には十分注意してるから」
「・・・君は普通科だから、音楽科とは違ってこういった授業も受けなければならない・・・それはわかっているんだが」
 どうしても指の心配をしてしまうんだと。
 苦笑いしながら俯いた月森に、香穂子は首を振った。
「心配してくれて、ありがとう」

「さて、月森くん」
 こほんと咳払いした後、教壇に立っている香穂子が教師のような口調で月森を呼ぶ。
 何事かと驚いている月森に、もう一度「月森くん」と呼んだ。
「・・・はい」
 何かの遊びだろうと思って、月森も笑いながら冗談で返事をした。
 満足そうに香穂子が頷く。
「では、この問いに答えなさい」
「・・・・・・」
 チョークで何か書き始めた。
 香穂子の字は綺麗だと思う。カツカツという音が、二人しかいない教室に響く。
 その手元をじっと見ていると、何を書いているのかがわかってきた。

『音楽科』

『2年A組』

 自分のことで何か書かれるのだろうと検討がついた。

『月森蓮の』

 ・・・俺の?
 その後に現れる文字をじっと注視する。

『未来』

 彼女のチョークが置かれないことで、これだけで終わらないことに気付いた。
 黙って書き終えるのを待つことにした。

『日野香穂子の』

『未来が』

『交わるか否か』

 最後にトンとチョークを黒板に叩くようにして、チョークを置いた。
「前に来て答えなさい」
 香穂子の顔が赤い。自分で書いていて恥ずかしくなったらしい。
 俯いたまま立ち尽くしている。
「・・・はい」
 返事をして月森が立ち上がった。
 ゆっくりと黒板に向かって歩く。
 チョークを手にして、香穂子が書いた質問の脇にサラサラと書き出す。
 香穂子はぎゅっと目をつぶっている。
 短いとも長いとも思える時間。
 ずっと香穂子は目を閉じていた。

「日野先生、できました」
 少し笑いを滲ませて、月森の声が存外近くでした事に、香穂子は驚いて目を開けた。
「ああ、目は閉じて」
 月森の手が香穂子の目を覆う。
「そのまま、そう・・・こっちへ」
 答えが書いてあるらしい所まで、月森の手が導いた。
 香穂子の背後に回り、「目を開けて」と囁いた。
 その囁き声の艶やかさにドキドキしながら、香穂子が恐る恐る目を開ける。
「!!」
「・・・先生、正解ですか?」
 香穂子は何も答えない。少々不安に思って香穂子を覗き込むと、ぽろぽろと涙を流していた。
 静かな、涙。
「香穂子」
 驚いている月森に「ご、ごめん!」と慌てて涙を拭う。
 そうっと腕の中に閉じ込めて。
 月森が問うた。
「先生、答えは合っていますか?」
 どこまでもふざけたそれに、香穂子も乗ろうと決めた。
 そうでなければ、恥ずかしくて(自分から始めたのに)やってられない。
「よくできました」
 満足そうに頷いて、月森の腕が離れた。
 その代わりに端正な顔立ちが近づく。

「好きだよ、香穂子」
 少し深いそれに、香穂子がうっとりと目を閉じた。
 その表情が・・・「あの時」の表情のようで。
 月森の心臓がドキンと跳ねた。
「好きだよ・・・」
 暗い教室の中で外灯に照らされる二人の影が再度重なる。
 二人の未来。
 ずっと影が重なり続けるといいなと願いながら。


『同じ道の上に二人の姿があり、未来永劫、君と共に歩んでいく未来』

 

 

 

 

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