| 涙とともに流してしまうはずだったのに |
気付いてしまった。
唐突にやってきた「それ」は、抗う間もなく、ストンと。
私の胸に落ちてきた。
今日はやめよう。
練習室が満室だし、屋上にはきっと彼が・・・月森くんがいる。
今は顔を合わせたくない。
そう思って森の広場へやってきた。・・・のはいいけど。
どうしてかわからないけど、気分が乗らない。
音が伸びていかないような気がして、少し休憩してみたりもするんだけど、やっぱりダメだ。
「・・・帰ろう」
「日野」
声だけでわかる。
この声は・・・
「月森、くん」
背筋をぴんと伸ばして、こっちを見ている。
今は、会いたくなかった。
「今、帰り?」
ああ、と彼が頷いた。
「君も帰るのか?」
「うん。なんだか気分が乗らなくて」
凪いだ海のような、静かな視線。
「何か、用?」
いつもなら私に気付いても話しかけずに素通りしてしまうだろうに、わざわざ話しかけてきたということは、何かあるのかな。
ケースのカギをパチンと閉めて、立ち上がる。
月森くんは、ふと視線を逸らして「いや」と答えた。
「何も用事はなかったんだが」
「どうかした?」
そこで、どうして自分が声をかけたのかがわからないことに気付いたようだった。
「・・・なんとなく。君と・・・その」
「?」
手を口元に当てて黙り込んだ。
「君と話をしたいと、思って」
「私と?」
小さく、コクンと頷いた。サラサラの髪が揺れる。
「じゃあ一緒に帰ろっか」
できるだけ自然な笑顔を繕う。
この気持ちを気付かれたくない。
月森くんが、好きだと。
ああ、と月森くんが頷いた。
一緒に歩き出す。
話をしたいと言ってたけど、そんな様子は見られない。
ただ黙って歩く。
もうすぐ分かれ道。あの交差点に着けば私は右へ。月森くんは信号を渡る。
顔を合わせたくなかったのに。離れたくないとどこかで願う自分もいる。
「君は、これから何か用事があるだろうか」
「ううん、何もないよ」
そうか、と考えるように少し首を傾げて。
「寄り道をしていかないか?」
私が帰る反対方向を指差した。
坂が多いこの街は、本当にいい運動になると思う。
学校へ行く道のりも坂道だらけだし。
「君はさらに学校でも走り回っていたようだから、尚更だろう」
月森くんが珍しくからかうような口調で言った。
「やりたくてやってたわけじゃないんだけどね」
リリを探して学校中走り回ってみたり、練習場所を求めて学校の中をウロウロしていることもしょっちゅうだ。
「もう少し頑張ってくれ」
息を切らしながら坂道を登りきる。
「うわ、あ・・・」
大きな樫の木。その向こうに海が見える。
樫の木の下にはベンチが置かれていた。
「綺麗だね」
夕暮れの街並み。ところどころ明かりが灯っている。
オレンジ色の太陽が、海の向こうへ沈み始めていた。
「時々ここに来て、この夕焼けを眺めているんだ」
「へえ・・・」
「君も気に入ったのなら、良かった」
優しい微笑みと、穏やかな声。
いつもなら冷たくあしらわれるのに。
「最近、あまり元気がなかったようだな」
はっとして振り返ると、月森くんはさっきと変わらない、穏やかな微笑を浮かべていた。
「コンクールにライバルとして出ている君に、こんなことを言うのはどうかと思うんだが・・・その」
君には頑張ってほしい。
琥珀色の瞳が、静かに私を見下ろした。
「コンクールの質を落とすようなことはしてほしくない、それは今でも変わらない。しかし、君の音色は拙いだけではないようだから。素直な君をそのまま音にしたような、そんな音がする。だから・・・日野?」
ぶわっと涙が溢れた。
コンクール出場者の中で一番意識している月森くんに、・・・好きな人に、頑張ってほしいなんて言われたら。
「ダメだなあ・・・私」
この気持ちは閉じ込めてしまうはずだったのに。
そんなこと言われたら。
「溢れそうだよ」
コンクールが終わるまでは。
この気持ちはしまっておこう。
だから今だけ。
涙と一緒に溢れ出す気持ちを、止めさせないで。
流れた分だけ、きっと。
軽くなる気がするから。
私の涙を隠すように、太陽がゆっくり沈んでいった。
2010.3.5UP