追複曲(カノン)

 




「あ、月森くんだ」

「月森くん」

「月森くん!」

「月森くーん!」

 ある意味では有名になった光景。
 学内コンクールが始まってからというもの、普通科の女子生徒か校内を駆け回り、更には同じ楽器で出場する音楽科の月森の姿を見つけると、どんなに邪険にされようとも懲りずに話しかける、という光景が。
「こんにちは、月森くん」
「…こんにちは」
 今後の要件如何では追い返すのだが、挨拶程度ならば仕方ない。そう思って返事を返すと、香穂子がにっこりと笑った。
「今日はここで練習?聞いててもいい?」
「断る」
 誰であろうと練習している所を見られるのは嫌だ。今日はさらっと弾いて帰るつもりだった。
「けち」
「…っ、君に言われる筋合いなど何もない」
「邪魔しないから、ね?」
「…君が移動しないのなら、俺が移動する」
 せっかく見つけた場所だけれど、この少女がどこにも行ってくれないのならばまた他の場所を探すしかない。けれど、きっと、また追いかけてくるんだろうという確信に近い予感はあった。
「ちぇ、なんだー聞かせてくれないのかー。月森くんの音、好きなのにな」
「俺の音を褒めてくれるのは嬉しいが、練習しているところを見られなくないんだ」
「え、どうして?」
 きょとんと首をかしげた香穂子に小さく溜め息をついた。
 毎日どこであろうとヴァイオリンを弾く香穂子にはわからないのだろう。
 求める音楽を欲してあがくことも。
「…とにかく」
「君には関係ない、って?」
 月森の口真似をした香穂子の言う通りに言おうとしていたのを見透かされて、不快げに眉をしかめた。
「わかっているならいいだろう」
 ヴァイオリンをケースにしまって立ち上がる。どこか他の場所を探さなければならない。
「あっ、待ってごめん!意地悪とかするつもりじゃなかったの。ただ純粋に誰か他の人の音を聞きたかっただけだったんだ」
 月森が背を向けたまま立ち止まる。その背中に香穂子が尚も言葉を重ねた。
「今、自分がどんな風に弾けばいいのかわかんなくて。練習すればするほど煮詰まって…誰かの音を聞けば何かわかるかなって思って。そしたらたまたま月森くんがいたから」
「俺の音を聴きたいと?」
 うん、と香穂子が頷く。
「邪魔しようとか、そういうつもりじゃなかったの。ごめんね」
 私が移動するから、月森くんはここで練習してね、と言い残して香穂子も背を向けた。
「構わない」
「…え?」
 互いに背を向けているから、一瞬月森の声が聞こえなくて問い返す。ゆっくりと香穂子へ向き直りながら、月森が再度言った。
「別に構わない、と言ったんだ。それでコンクールの質を落とさないと言うなら」
「…いいの?!やった、ありがとう月森くん!」
 ぴょんと飛び跳ねて小さく万歳する香穂子に、仕方がないなとでも言いたげに苦笑すると、持っていたケースを開けた。

 何を弾こうか数秒考えて。
 ヴァイオリンを構えた。
「あ。これ……」
 パッヘルベルのカノン。
 知らない人はいないほど有名な曲だ。単調さが初心者のいい練習曲として、クラシック入門としては最適であろうと言われる。
 そんな簡単な曲を、どうして。

(私のため、なのかな)

 ヴァイオリン初心者の香穂子は、毎回のセレクションをそれこそ必死でこなしている。
 授業よりもヴァイオリンを弾いていたいくらいに。
 その悪い意味での必死さが仇となってヴァイオリンが弾けなくなった香穂子に、月森からのエールなのだろうと思う。
 簡単で、単調で。
 けれどもその奥にある優しさや、柔らかさ。
 きっと、そんなことを気づかせようとしてくれているのかもしれない。

(こんな風に、弾けるかな)

 優しくて、綺麗で。
 きっと今の月森は、何も計算していない。
 素の「月森蓮」の音だ。

(こんな音を弾いてみたい)

 月森がヴァイオリンを下ろす。静かに香穂子を見下ろした。
「…ありがとう、月森くん」
「…いや」
 香穂子の表情を見て、嬉しそうに、けれどどこか面映ゆそうに目を細めた月森が言った。
「今度のセレクションで君がどんな音を奏でるのか、楽しみにしている」
「まっかせといて!今の月森くんの音に追いついてみせるから!」
 ホントにありがとう!と手を振って香穂子が走り去る。
「俺の音に追い付いて見せる、か」
 レベルの差は歴然だ。けれども香穂子はそれを承知で言ったことがわかる。それだけ目標を高くしているということだ。

「追い付けるなら、追い付いてみるといい、日野」

 きっと今以上にヴァイオリンに魅せられるだろうから。


「…待っているから」

 

 

2011.9.29UP