| 練習曲(エチュード) |
無言で手渡された楽譜。
「これ、何?」
「エチュードだ」
「えちゅーど?」
そんなことも知らないのかと呆れた視線が突き刺さる。
「練習用の楽曲のことだ。今の君にはどれも弾きこなせないだろうから、ツェルニーの100番をコピーしてきた」
「ツェルニーの100番?…よくわかんないけど、ありがとう」
使わせてもらうねと伸ばしたてが差し出された楽譜を掴む直前。
「え」
「…以前尋ねたことを何度も蒸し返すのは好きじゃないんだが…。君は、本当にヴァイオリニストとしての自覚はあるのか?」
「え」
差し出した手を引っ込められず、かといってどうにもできずに泳ぐ。視線も同様で。
「コンクールが始まる直前になってヴァイオリンを始めたといった噂を聞いた。それは君にも聞いたことがあるな。あれは、…本当な」
「ああ!いたいた、月森くーん!ちょっといいかなあ?」
声を聞くだけで条件反射のように顔が顰められた。
とにかく、と月森が引っ込めた手を再度差し出す。
「昔書き込んだものもそのままコピーされているが、今の君には役に立つはずだ。参考にしてくれ」
それじゃ、と踵を返す。
ありがとう、とようやく絞り出した香穂子に返事をすることもなく、天羽から逃げるように去っていく背中を、香穂子は不思議な気持ちで見つめていた。
「ヴァイオリニストとして認められない、って言っておきながら、何でこういう優しいことしてくれるのかなあ…」
「何か思うところがあると見たね」
「!!」
びっくりして振り返ると、天羽がカメラ片手ににやにやと立っていた。
「いやー、月森くんに話を聞きたかったんだけど、あんたの呟きに思わず立ち止まっちゃったわー。なになに、ヴァイオリニストとして認められないって言われたの?月森くんに?」
「うう、、、な、何でもないっ!ごめんね、私これから練習しなくちゃだから!」
じゃあね!と香穂子も逃げるように去っていく。
「今度取材させてもらうからねー!」
という声を聞きながら。
君を、ヴァイオリニストとして認められない。
確かにそう言われた。
言われたけれど、どうして、こんな。
「…メモ?」
コピーではない、薄く鉛筆書きのメモ。
楽譜の右上に小さく書かれていた、それ。
「なになに…、」
コンクール用には不向き。
「……………………………、ちょっと、あったまきた……!」
一瞬で脳みそが沸騰したかと本気で思ったくらい頭にきたことは今までになかった。どんな嫌がらせにだってこんな気持ちにならなかった。
「見てなさいよ月森蓮っ!ぜったいに、ぜえええええええったいに!見返してやるんだから~~~!!!」
魔法のヴァイオリンが壊れて、普通のヴァイオリンになった途端、全てが一からのやり直し。音も技術も、何もかも。
そのことで色々と言われているし、自分自身よくわかっている。コンクールメンバーからは大体心配の声をかけられるけれど、月森と柚木だけは容赦ない言葉を浴びせて香穂子をさらにどん底へと突き落とす。柚木の場合は作為を感じるからある程度無視もできているけれど。月森の場合は本気で言っているだけに、
「許さない…!」
こんな簡単な練習曲を、本気でコンクールに使うとでも思ったのだろうか。
少し視点を変えれば、それほど香穂子のヴァイオリンは目も、…というより、耳も当てられない、ということか。
「私が一番、いっちばん!そんなことわかってるわよ!言われなくたって…、……そんなこと…」
イライラを通り越して、へこんできた。
しかし立ち直りの早さには自覚がある。明日にはきっとこの悔しさをやる気に変えて、黙々とこの練習曲を弾いているだろう。
「ヴァイオリン、練習しよう」
月森から貰ったエチュードで。
きっと楽譜を見る度にメモのことを気にして落ち込むのだろうけれど。
一方。
(少し簡単すぎただろうか…)
練習室へと急ぎながら、月森は考えていた。
ある程度弾けてはいたようだし、楽譜も読めるようだから、もう少し難易度のあるものが良かったかもしれない。
認められない、と言っておいて、どうしてこんなことをするのか、自分でもよくわからない。
けれど、何か。
(俺で役に立てるなら、そう…思った、…だけだ)
勝手にしろ、と最初は思っていた。コンクールの質を落としさえしなければ。
ある日突然ヴァイオリンの音色がガタガタと落ちていき、今や初心者もかくやというレベルにまで急落していた。それで落ち込んでいることも知っているし、周囲から色々言われていることも知っている。
コンクールの質を落とさないで欲しいと常に言っているのは、ひとえにそんな低レベルのコンクールに自分が入賞などしても嬉しくないからだ。子どものお遊戯会のような、なあなあで満足するようなものに自分が出たなどという事実があってほしくない。
(…なのに、どうして、…俺は)
彼女に手を差し伸べるんだろう。
時折言葉とは裏腹な行動をする自分が信じられない。現に今さきほども、練習曲を渡してくるなどという「不可解な行動」を取ってしまった。…わざわざ昨日の夜にコンビニへ行ってコピーまでして。メモまで書いて。
「明日、聞いてみよう」
あの練習曲では簡単すぎるかもしれない。もう少し難しいものもあるから、希望するなら貸し出しても構わないと。
「………………」
明日。
また香穂子と話す機会ができた、ただそれだけで。
(嬉しいと思うのは…何故なんだ…)
月森はまだ知らない。
翌朝、正門前で仁王立ちになって待ち構えていた香穂子に「あんなの使わないからっ!」と叫ばれることを。
ヒトリゴト。
わかりづらいので補足しますとですね。
月森は、コンクールに出るようなレベルの高い人間が練習用として使用するには「不向き」かもしれない、と思っています。
しかし香穂子は、この練習曲をコンクールで使用するには「不向き」だと言われているのだと勘違いしています。
ちなみにギャグですよ…!シリアスにオトせない最近の私。
2012.7.14UP