| 子守唄(ララバイ) |
いつものように玄関先で見送る香穂子に「行ってくる」と告げて、ドアを開ける。
ウィーンの冬は早く、長い。吐く息がもう白くなっている。
マフラーを巻き直して「それじゃ」と振り向いた。
「いってらっしゃい。後でスタジオ行くね」
「わかった」
楽しみが一つ増えたなと心の中で思いながら、パタンと閉めた。
いつもは月森の仕事先についてくることをしない香穂子だが、時々様子を見に来たり、スタッフと喋りに来たりしているようだ。
仕事で行き詰まっているとマネージャーであるロータスから聞かされたのだろう、久々にスタジオに来ると言う。
スタッフとお喋りしたいとは言っていたけれど。
(気を遣わせてしまったな)
少し申し訳ない気持ちになりながら、スタジオのブースに入る。
ここから先はプライベートなことは一切持ち込まない。ヴァイオリンの演奏を完璧に弾きこなすことだけに集中したいから。
それを知っているスタッフはだから、余計な事を言わない。それが月森には助かっている。
演奏中に香穂子が来るかもしれないことはスタッフであるジュリアに伝えている。伺っていますとにっこり笑って月森をスタジオへと送り出してくれた。
CDの売れ行きも順調らしく、今回は月森が作曲した短い楽曲も入る。
作曲などしない、と何度も断ったのに、短くていいですから、と押し切られて結局一曲だけという条件で引き受けたのが一年前。
仕事と平行しながらなかなか進まない作業にスタッフは根気よく待ち続けてくれて、ようやく完成したのだ。
一番最初に楽譜を見せた香穂子が「すっごく意外」と言いながらもいい曲だと絶賛してくれたし、スタッフも編曲するところがないくらいだと言うその楽曲は。
「Lullaby」
そう、子守唄だ。
月森と香穂子の間にはまだ子どもがいない。天からの授かりものとはよく言ったもので、なかなか巡り合えないでいるらしい。
どうして技術的な楽曲ではなく、抒情的な子守唄なのかと誰に見せても聞かれる。どうしてと聞かれても、月森も特に理由はないから答えようがない。
子どもが欲しいからかと聞かれて香穂子が真っ赤になっていたが、そういう理由でもない。いつか生まれたら聴かせてやりたいとは思うけれど。
ヴァイオリンを構える。スタジオ内の空気が鋭く尖ったものに変わる。この一瞬の変化が、月森は好きだ。
皆が一体になって一つのものを作り上げていくのは、学生の頃は煩わしいと思っていたけれど。アンサンブルやコンサートを経験して考えが変わったのもあるだろう。その点については香穂子や星奏の仲間たちには感謝している。
(仲間たち、か)
弓をゆっくりと下ろす。
あの過去があるからこそ、今の自分がいる。
そして、今の自分がいるから、これからの自分がある。
過去に経験してきた想いや苦さ。けれどそれをも凌駕する優しさに出会えたから、今の自分はこうしてヴァイオリンを弾いていることができる。
香穂子という存在があるから。
彼女に出会わなかったら、子守唄なんて作曲しようと思わなかったに違いない。
同じようにとはいかないけれど、香穂子が得意とする優しい音楽。
そんな楽曲を作ってみるのもいいかと思ったのだ。
何の思惑もない、ただ子どもを寝かせるだけの、子守唄。
ゆっくりと、けれど音の高低をはっきりと。
泣きじゃくる赤ん坊がゆっくりと寝入っていく様を想像しながら、月森はヴァイオリンを弾く。
涙の痕を拭く、母親の優しい指。
無邪気な寝顔で母親の腕に抱かれる子ども。
小さな手をきゅ、と握りしめて、すやすやと眠る。
誰もがあった、小さな赤ん坊の頃。
母親のあやす手が次第にゆっくりになっていき、やがては母親もまた眠りにつく。
優しい、やさしい音楽を。
ゆっくりと弓を上げる。
ヴァイオリンを下ろして編集ブースを見ると。
「…………」
一人、眠っているスタッフがいた。
くすくすと笑いをこらえて皆人差し指を口元に当てている。
月森の子守唄で本当に眠ってしまったらしい。これは後々まで笑われるだろうなと苦笑を漏らす。
ゆっくりとドアを開けると、同時に外へと続くドアも開かれた。…こちらは遠慮なしに、勢いよく。
「こんにち、は…」
元気よく入ってこようとした香穂子が、スタッフ全員からの「し〜っ!」に口をつぐみ、指差したほうを見て「なるほどね」と頷く。そうしてゆっくりと音をたてないようにドアを閉めながら「どうしたの?」と隣にいたジュリアに尋ねた。
「子守唄を聴いて、寝てしまったんです」
「ああ、あれね。眠くなるよねー」
それじゃあ仕方ないかと苦笑している香穂子の元に歩みよる。「これ、差し入れです」と大きな紙袋を差し出した。
「カップケーキだよ。蓮には特別バージョン。甘くないやつね」
スタッフが小さく拍手する。寝ているスタッフを起こさないように静かに控室へと出た。
「朝から忙しそうにしていたのは、これを作っていたからなのか」
「うん。今回はちょっと張り切ってみたよ」
紙コップに紅茶を淹れて配り、皆で「休憩タイム」。この後の難関に備えて、甘いものを補給しておこうということらしい。皆無言で食べている。香穂子が来るとわかっている日は、スタッフの頑張りも少し(どころじゃない、とは月森の言である)違う気がする。きっとこの「休憩タイム」を楽しみにしているのだろう。クッキーやパイなどを差し入れてくれるから。
「で、子守唄はどうだったの?」
「おかげさまで」
一発OKだったと暗に言うと「良かったね!」と喜んでくれる。周りのスタッフも嬉しそうだ。香穂子が来ると雰囲気が柔らかくなるのは気のせいではないのだろう。ロータスあたりに言わせると「それはあなたの眉間に皺が寄っていないからですよ」などと言いそうだが。
「でもあの子の分残さなくていいの?」
寝てしまっているスタッフはまだ起きてこない。睡眠を取ったのだから甘いものはいらないとジュリアが食べてしまったのだ。いつも宣言しているダイエットは、今日もまた失敗に終わったようだ。
「いいんですよ、カホコ。寝て、また甘いものを食べるなんて、…あー…」
「…贅沢、か」
ジュリアが日本語に訳せずにドイツ語で何か単語を発したのを、月森が訳してやる。ジュリアがこくこくと頷くと、香穂子が「そうかなあ」と首を傾げた。
けれどそれ以上何も言わずに紙コップの紅茶を啜る。ティーバッグで淹れたそれは苦味があって、月森は未だに慣れずに眉をしかめた。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
この後もあと2曲ほど演奏しなければならない。そのうちの1曲が難関で、技術的なものではなく、表現上の問題でスタッフと月森との間で揉めている。ほんの僅かな違いなのだが、重要なポイントだから双方とも譲ろうとしない。月森が強行突破しようとすればスタッフが強制的に録音を止めてしまう。そうやって何度も何度も衝突しているのだった。
「頑張るぞー!」
スタッフの中でも元気のいいクリスが気合を入れて出ていく。月森も表情を引き締めながら「行ってくる」と立ち上がった。
「うん。頑張っ…」
てね、と言いかけたセリフはぽたぽたとリノリウムの床に落ちて消えた。
「ああああああああ〜〜〜!どうして誰も起こしてくれないんですかーっ!カホコの差し入れが…っ!カホコ〜〜〜!」
爆睡していたスタッフの叫び声によって折角の緊張感が一気に崩れ去り、月森とスタッフの雷が落ちたとか落ちないとかいう話があったらしい。
ヒトリゴト。
ギャグですよ!スタッフが寝ちゃった時点でギャグにしようと思い立ち、真面目な展開にしかけてギャグでオトすという、ベタな展開にしてみました。
なかなか楽しかったです。
2011.11.25UP