交響曲(シンフォニー)

 




 あ、と香穂子が突然声を出した。

「どうかしたのか?」

「あ、ううん。何でもない、ごめんね突然」

「いや、構わないが…」

 ヴァイオリンの練習を見てもらっている最中に突然何かを思い出したように演奏を止めたから何事かと思ったが。
 彼女の「突飛」さにはだいぶ慣れてきた。

「ほら、今度第九をやろうって話が出てるじゃない?それでふと思い出したんだけど…」

 クリスマスコンサートももうあと数日を目の前にして、誰が言い出しっぺだか知らないが「最後に第九を演奏しよう」という話になったのだ。ただでさえ香穂 子は目の前の課題に追われて精一杯だというのに更に演奏曲目が増えて、授業どころではなかったりする。定期テストもあるから悲鳴を上げそうだ。

「第九で死んじゃうってホント?」

 これまた突拍子もない言い方だが、月森は「ああ」と軽く頷いた。

「交響曲に第九番と付けると死んでしまうというジンクスのことだろうか」

「ああ、確かそんな話だったような…」

 月森がくすっと笑う。ヴァイオリンをしまうと、ピアノの椅子に座るよう促した。
 何のアテもなくぽろぽろと弾きながら「本当にジンクスだが」と話し出した。

「ベートーヴェンが第九番を作曲し、第十番を完成することなく死亡したという話から始まる。第十番を完成できなかったことを恨みに思って、第九番を付けた作曲者を呪うというものだ」

「へえ…」

「しかし、交響曲を作曲するには時間も気力も必要だ。人間の平均的寿命から見て、九曲を作曲するのが限界だという説もあるし、後の作曲家でもっと作曲している人もいる。だから、全くのでたらめだ」

「でもジンクスっていうくらいだから、実際に亡くなった人もいるんじゃないの?」

「いるな」

 グスタフ・マーラーは有名な話だ。

「彼は九番目の交響曲に『大地の歌』と付けた。これで死ななかったことに安堵して、次に作曲した交響曲に第九番と付けたら…」

「死んじゃったの?」

 ああ、と月森が頷く。

「未完成のまま、残念ながら。ただ彼の場合は心臓に疾患を抱えていたこともあるから、完全な『呪い』を疑うケースにはならないだろう」

「うーん、そうなんだ」

「ベートーヴェンの音楽に対する執着が少し見える気がする話だが、俺は全く信じてはいない」

「じゃあ仮に月森くんが交響曲を作曲して、九番めになったら『第九番』ってつけるの?」

「交響曲に付与されてい番号は、必ずしも作曲順とは限らない。整理の為に後から付与されるものもある」

「結局付けないってこと?」

「さあ…どうだろうな」

 月森が曖昧な笑みを浮かべて首を傾げた。

「そもそも、俺に作曲の才能はない。音楽を表現するのだってまだまだなのに、作曲なんて…」

「授業でそういうの、やらないの?」

「ある。俺はあまり得意ではないからいつも苦労する」

「月森くんが作曲した曲、聴いてみたい!私ができるなら演奏も!」

 え、と驚いた顔で月森が香穂子の顔を凝視した。何かまずいことでも言っただろうかと上目遣いになる。

「…何か、変なこと言った?」

「いや…少し、驚いた」

「どうして?」

 聴いてみたい、だけならわかるが、弾いてみたい、と言われるとは思わなかった。
 しばらく二人で目をぱちくりしながら見つめ合う。

「…わかった」

「えっ」

「今度、楽譜を持って来よう。ただし、クリスマスコンサートが終わってからだ」

「うぅ、はい…」

 それじゃあ始めようか、とまたヴァイオリンを取り出す。さっきまであっぷあっぷしていた香穂子だったが、俄然やる気が出てきた。…気がする。

「よし、頑張る!」

「その意気だ」

 勢い込んで力んでしまったせいでしょっぱなからとんでもない音を出し、雷が落ちるまであと数秒。






2012.3.12UP