足枷

 




 

 毎日が平和だ。

 コンクールが終わってからというもの、あの怒涛の日々は夢だったのかもしれないと思うほどに。

「あ〜、今日も平和だなあ・・・」

 昼休みの屋上。

 のんびりと弁当を広げる月森と香穂子の頭上を、のんびりと雲が流れていく。

 のけぞるようにしてそれを眺めていた香穂子に、月森が声をかけた。

「コンクールが終わったから、少しは気が休まるだろう」

「少しどころじゃなく、すーっごく休ませてもらってます」

 ふ、と月森がおかしそうに笑った。

「リリの姿はもう見えないんだろう?」

 あのうるさい小さなものが周りをうろうろしていないだけで月森としてはかなり精神的に落ち着くのだが。・・・などと言ったら「うるさいとは失礼なのだ月森蓮!」などと怒り狂いそうなのが実は目の前をふわふわしているとも知らず。

「・・・それが」

 香穂子が宙を指差した。

「・・・いるのか?というか、君にはまだ見えているのか?」

「みたい」

 香穂子の目の前をふわふわ飛んでいる本人も、それは不思議らしく「今調べているのだ」と腕を組んで首を傾げている。

「今、調べてくれてるみたいだよ」

「君はよほど音楽から祝福されているらしい」

 羨ましいのか、月森がぽつりと呟いた。

「音楽から好かれるのは嬉しいことだけど、リリが未だに見えるっていうのがねえ・・・」

「どういう意味だ日野香穂子!我輩たちファータからの音楽の祝福を受けた者が・・・」

「それはわかってるけど!授業中にまでウロウロされたら迷惑なの!」

「それは我輩ではないぞ!」

「部下でしょ?!イタズラしないでって言うことくらいできないの?!」

「あぅ・・・」

 端から見れば、空中に向かって大きな独り言を喋っているようにしか見えない。月森が手を額に当てて盛大なため息をついた。

「香穂子。・・・相当怪しいように見えるから、リリと話すならせめてもうすこし声のトーンを抑えてくれないか」

「・・・・・・ハイ・・・・・・」

「・・・すまなかったのだ、日野香穂子、月森蓮」

 リリも大人気なく(?)ぎゃあぎゃあと喚いてしまったことは素直に反省しているらしい。

 しょぼんと項垂れているのを見ると、香穂子のほうが悪いことをした気にさせられる。

「私も怒鳴ってごめんね、リリ」

「・・・日野香穂子ぉ・・・」

 がばっと顔を上げるなり、大きな瞳を潤ませて見つめるリリに、何となく嫌な予感がした。

「やっぱり日野香穂子なのだ!お前は心根の優しい人間だ!」

 羽根からキラキラした燐粉を撒き散らしながら香穂子の周りをぐるぐると飛び回る。あまりにも勢いよく飛び回るから、そのうち目が回るのではないかと心配になる。

 そしてその心配は、案の定・・・

「・・・世界がぁ、グルグル〜・・・してる〜のら〜」

 ぱったりと地面に倒れ付した。

「あーあ。羽目外しすぎ」

 呆れたように香穂子が地面を見下ろす。どうしたのかと見つめる月森に「勢いよく飛びまわり過ぎて、目回して落っこちたの」と説明してやると、これ以上ないほどに月森の表情が呆れ返った。

「行こう、香穂子。昼休みも終わる」

「そうだね。リリ、じゃあね」

 自業自得なのだからと置いていこうとする二人を、リリが見当違いな方向に手を伸ばした。

「待つのだぁぁぁぁぁ」

「・・・・・・行こ、月森くん」

 月森を追いかけて歩き出そうとした香穂子の足を、リリがむんずと掴む。

「待つのだ、日野香穂子!」

「えっ、ちょっ・・・うわわわわ!」

 バランスを崩して香穂子が転ぶ。・・・ヴァイオリンを持っていなかったのは不幸中の幸いだ。などと咄嗟に月森は思ってしまって、はっと我に返る。

「香穂子!」

 駆け寄った月森が助け起こそうとするのだが、足が固定されているかのように動かない。きっとリリが掴んでいるのだろうと「リリ、離せ」と言ってみるがその様子はない。

 だめもとでリリがいる辺りを手で払いのけようとするが、当然の如く触れない。

 香穂子もリリを掴んで離そうとぐいぐい引っ張っているのに、あの小さな体のどこにこんな力があるのだろうと思うほどに動かない。

「・・・リリ。何か魔法をかけたな?」

「う。どきっ・・・なのだ」

「・・・午後の授業始まっちゃうから早くどうにかして」

「だって・・・だって・・・」

「だっても何もないでしょ?!授業サボって成績落ちて、ヴァイオリン続けられなくなったらリリのせいだからね!」

「があああああん・・・!」

 その間にも、足枷のように地面に縫いとめられた片足を動かそうとしてみるが、さっぱり効果はない。

「はーやーく!リリ!」

「・・・・・・足枷を解く方法は、二つ」

 いつもの甲高い声ではなく、リリにしては低く唸るようだった。

「一つは、我輩が魔法を解くこと。もう一つは」

「・・・何?」

 月森は黙って香穂子の手を握っている。

「月森蓮とキスを10回交わせば解ける!」

「・・・はい?」

「我輩は仕事があるからサラバなのだ!」

「ちょっ、リリ!魔法を解いてってば!」

「・・・消えたのか」

「・・・うん・・・」

 もう屋上を出なければ、香穂子は間に合わない。舌打ちしたいのをどうにかこらえて、香穂子を見下ろした。

「魔法を解くには、二つの方法があって・・・」

 解かなければずっとこのままなのだ、言わなければならない。

 月森は黙って香穂子の言葉を待っている。

「一つは、リリが魔法を解くこと」

「・・・それは、無理だな」

「もう一つは・・・」

 言いかけて、口を噤む。

「香穂子?」

「月森、くんと・・・・・・を、・・・・・・・・・・・・って」

「すまない、よく聞こえなかった」

 耳を近づける。ふわりと月森の髪が香って、香穂子の顔が赤くなった。

「もう一度言ってくれないか。授業が始まってしまうから、早くしなければ」

 音楽科棟の屋上から普通科棟まではかなりの距離がある。そろそろダッシュしなくては間に合わない。予鈴も鳴る頃だ。

「つっ、・・・月森くんと、・・・10回」

「10回も何をするんだ」

「・・・・・・・・・・・・、キス、しろって・・・・・・・・・・・・」

 お互いの顔がぼんっと音がしそうなほどの勢いで真っ赤に染まった。

「本当にリリがそう言ったのか?」

「じゃなかったら魔法が解けないんだもの、嘘言ったってしょうがないよ!」

「そうだな、君を疑ったわけじゃない、すまなかった」

 気まずい沈黙が降りる。二人の間に降りる沈黙を笑うかのように、予鈴が鳴り響いた。もう午後の授業は間に合わない。

「月森くん、授業に行って。月森くんまで遅れちゃったら・・・」

「しかし、リリの言うようにしないと、その魔法は解けないのだろう?」

「そうだけど」

 リリのせいで、月森にまで迷惑をかけてしまった。後で思い切り仕返ししてやらなくちゃと思いつつ、香穂子が俯いた。

「でも月森くんにまで迷惑かけられないよ」

「気にするな。とは言えないが、後で金澤先生に言って、担任の先生に話してもらおう」

「う、うん・・・」

 沈黙。授業をさぼってしまうことが決定してしまうと、急ぐ必要がないだけに恥ずかしさのほうが勝ってしまう。

「・・・香穂子」

「・・・うん」

 こういうとき、どうすればいいのだろう。

 ぎゅっと目を瞑る。

 ずっと握っていた手にも力が入ったから、自分がどれだけ緊張しているかなど伝わっているはずだ。

 ほんの少し月森の手にも力が込められる。

 空いた手で、香穂子の顎をすくった。

(うわ、うわわ・・・うわわわ!)

 目の前が翳る。微かな息遣いが頬に触れた。

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 唇に何かが触れた。少し冷たい、けれど柔らかな感触。

 キスをするのはこれが初めてではない。だから今触れたものが何なのか、香穂子にはわかる。

 すぐに離れた温かさを寂しいと思ってしまう。それは月森も同じだったようで、小さく鼻を鳴らした。

「あと、9回・・・」

 すぐ間近で呟いた月森の声が低く掠れていて、心臓がどきっと跳ねた。

 二度目は一度目よりも少しだけ長く。

 三度目も二度目より少しだけ長く。

 四度目は上唇を食むように。

 五度目は角度を変えて。

 六度目はほんの少しだけ深く。

 七度目は少しだけ深く、長く。

(なんかもう、心臓はちきれそう・・・!)

 少しずつ深くなっていくそれに、香穂子が耐え切れずに顔を背けた。

「・・・香穂子?」

 掠れた月森の声が、香穂子の奥底にわだかまる何かを呼び起こしそうで。

「は、恥ずかしくって・・・!」

 すかさず、ちゅ、と音を立ててキスをされた。

「八回めだ。・・・あと、二回」

「月森くん・・・!」

「こういう君も、・・・かわいい」

「!!」

 今度こそ心臓がどうにかなりそうだと香穂子は思った。

 月森の手が、香穂子の頬から後頭部へするりと滑る。さらさらした髪の感触を楽しむように指先でくるりと弄んだ。

 くすぐったさに思わず身を捩る。肩を竦めた拍子に、九度目。

「次で、最後だ」

「・・・うん」

 目を閉じたまま頷くと、月森が笑う気配がした。おそるおそる目を開けると、太陽の光の眩しさに順応できずに世界が真っ白になっていた。

「・・・これで、10回目・・・」

 唇が触れそうなほどの距離で囁く。月森の吐息がかかってくすぐったい。そちらに気を取られた隙に。

「・・・ん・・・ん」

 長かった。

 今までのものよりもずっと。

 息継ぎがうまくできずに、月森の背中をぱしぱしと叩く。名残惜しげに離された唇がぷっくりと水気を帯びていて艶かしい。

「足枷は外れたのか?」

 掠れた声で香穂子に問う。動かしてみると、先ほどまで金縛りにあっていたような感覚はなく、普通に動かせるようになっていた。

「大丈夫みたい」

「そうか」

 授業に戻りたくても、今の状態では戻るに戻れない。今は誰とも顔を会わせたくなかった。

「さぼっちゃったね」

「そうだな」

 再び訪れた沈黙は、少しの気まずさと、半分くらいの恥ずかしさと。

「後の半分は、・・・嬉しさ、かな」

「?」

 何の話だと不思議そうに月森が振り返る。

 何でもないと笑って、ベンチに並んで座った。

「ごめんね、月森くん」

「君が謝ることじゃないだろう」

「そうかもしれないけど」

 そもそもはリリが悪いのだ。

「今度会ったらとっちめてやるんだから」

「・・・程々にしておかないと、また仕返しされるぞ」

「う。・・・はぁい・・・」

 リリと出会って、ヴァイオリンに出会わせてくれたことは感謝している。けれど半分くらいはこんなイタズラや困り事だから、素直になれない。

「まだ時間があるな」

 下手に校内を歩いて先生に見つかれば面倒だ。

 仕方なくこのまま屋上で時間を潰すことになった。

「ヴァイオリンあったら良かったのにな」

「音は出せないな」

「じゃあ楽譜?」

「俺の楽譜ならあるが・・・」

「見たい!いい?」

 持っていたファイルから楽譜を取り出す。最近新しい曲を練習しているのは香穂子も知っていた。

「あれ、感傷的なワルツもある」

 几帳面な性格だから、不必要なものは持ち歩かない。楽譜にしてもそうだ。

 新しい曲以外にもこれを浚うんだろうかと月森を見ると「いや、まあ・・・その」と黙り込んだ。

「君を初めてライバルとして認識した曲だから。その初心を忘れない為に、持ち歩いている」

 香穂子は月森の恋人で、ライバル。

 そう思ってくれていることが嬉しくて、香穂子が破顔した。

「嬉しい。ありがとう、月森くん」

 でもね、と両手を腰に当てて胸を張る。

「私だって、負けないんだからね!」

「・・・・・・・・・・・・」

 あ、笑った!なんでそこで笑うかな?!

 唇を尖らせた香穂子に「すまなかった」と笑いが止まらないまま誤る。納得していない様子の香穂子に。

「君が俺のライバルで、俺も嬉しいと思っている」

 すかさず口付けた。

 二人の頭上を、のんびりと雲が流れていった。

 

 

 

 

 

 

 

ヒトリゴト。

 長かった・・・!久々にこんな長いの書いた・・・!もうしばらくやりたくない(おい

 本当はリリが足首を掴んで、コントのように香穂子がべしゃっと転ぶシーンを書きたかったんです、が・・・はは、はははは・・・(乾いた笑

 無駄に長いにもかかわらず、最後までお読み下さり、ありがとうございます。

 

2011.9.26UP