確かに遅れたのは自分だ。
 だから、今目の前の光景は仕方のないことだろうと思う。
 けれど、あまりにも、

 (・・・無防備すぎる)




無防備な唇

 




 

 練習室がいっぱいだから屋上で、と5時間目が終わった時点でメールをして、了解の返事がすぐに返ってきた。だから放課後になったらすぐに屋上に向かうつもりだったのだが。

「おー月森!ちょっといいか?」

 何だかんだ言いつつ仕事はきっちりやる金澤に呼ばれて遅くなってしまった。
 急いで屋上へ向かってみると、目の前には何とも平和な光景が繰り広げられていた。
 
 「香穂子」

 確かに遅れた自分が悪い。すぐに終わるだろうと思っていたのが30分近くかかってしまった。
 けれど、こんな短い間に、・・・爆睡するとは思ってもいなかった。
 楽典が枕代わりになっている。読み始めてすぐに寝てしまったのだろう。
 しかし、あまり人気がないとはいえ、それなりに不特定多数の生徒が出入りすることもあるわけで。
 そんな中で、ベンチに横たわり、

「・・・寝るのか」

 小声で呼んでも起きる気配はない。
 肩を揺すると「う・・・ん」とだけ言って、また寝入ってしまう。

「香穂子。起きてくれ」

「うー・・・」

「香穂子」

 薄く開かれた唇から、赤い舌がのぞく。その赤さに、あの時の香穂子の表情がまざまざと蘇ってしまって、ドギマギしながらようやく視線を外した。

「月森・・・くん」

 ああ、と返事をしてから気付いた。・・・寝言、だろうか。

「月森くん。・・・る、・・・」

「?」

 聞き取れなくて、思わず口元へ耳を寄せた。

「あいしてる、って言って・・・」

「・・・絶対起きてるだろう」

 これ以上ないくらい顔を真っ赤にして、右手で顔を覆う。しかし返事は、ない。

「それも寝言なのか?」

 一体どんな夢を見ているのだろうか。


 
 それとも。
 香穂子が言うことを言えば、起きてくれるのだろうか。
 少しの羞恥心と、いたずら心。
 勝ったのは。



 「香穂子」



 どうせ言ったって起きないだろうと踏んで、耳元ではっきりと。
 囁いてみた。




「香穂子。君を、・・・愛している」




 そうして、まるで絵本の真似事だなとどこかで自嘲しながら。
 唇を寄せた。







「あれ、・・・月森くんだ」

 目の前で月森が覗き込んでいる。目が合うなり月森ががばっと身を起こした。・・・顔が赤い。

「どうしたの?顔赤いよ?」

 口元に手を当てて、耳まで真っ赤にしながら「何でもない」とようやく搾り出した。
 何でもなくないだろうと起き上がると、楽典がドサリと落ちた。
 それを拾おうとして、・・・違和感に気付く。

(唇が・・・)

 何かに触れたような、別の熱を残している。
 少しの水気があって、柔らかい何かに触れた、その感触を。
 香穂子は知っている。

「・・・月森くん」

 何か?と背を向けたまま答えたのが、答え。

「私寝てる間に、何かした?」

「・・・いや」

 絶対嘘だ。
 顔を覗き込ませないなんて、何もなければあるはずがない。

「・・・つっきもーりくんっ!」

 背を向けたままの月森に、後ろから抱きついた。

「・・・っ、香穂子!」

 狼狽して声が震えている。そんなに感情を表に出すことが珍しい。
 ふふふふ、と香穂子が意地の悪い笑いを受かべた。
 ぎゅーっと力を込めると、観念したのか力が抜けた。

「お、ギブアップ?じゃあ何してたのか、香穂子さんに言ってごらん?」

 けれど、失念していたのだ。
 実は獣の皮をかぶっているんじゃないだろうかと時々思う表情を月森が持っていることを。
 そして、壁際に追い詰められた鼠が、どんな方法で反撃に出るのかを。
 全くもって、忘れていた。

「・・・白状すると」

 一つため息をついて。
 月森がゆっくりと手を上げて、自分の体に巻きついている手の上に重ねた。

「こういうことだ」

「きゃっ!」

 重ねた手を引っ張り、自分の前へとターンさせた。
 かろうじて転倒は避けたものの、よろけて月森の体にしがみついた香穂子が、自分の失敗を思い出した。

「君のリクエストに応えた結果だったんだが」

 お気に召さなかっただろうか。
 しれっと言うその唇を手で塞ぎたくても、月森の両手がそれを阻む。

「リクエストって何?!」

「覚えていないのか?」

 月森にしては珍しい、意地の悪い笑みを浮かべて、香穂子を見下ろした。

「それじゃあ、改めてリクエストに応えようか」

 端正な顔が近づいてきた。
 これじゃ、まるで・・・




 「愛している、香穂子」




 唇がかろうじて触れるほど近くで囁かれた言葉の、その意味を理解した途端、香穂子の顔が真っ赤に染まった。

「君がいればそれでいい。俺には、君しかいらない」

 先ほどは言わなかったが、そう思っていることは本当だから。
 だから囁く。

「君が好きだよ。・・・本当に」

 そうして与えられた深い口付けは、先ほどの熱の残滓よりも遥かに甘かった。

 

 

 

2010.12.1UP