月夜に咲く花




 ねえ、と話しかけられて、香穂子が顔を上げた。

「あなた、ヴァイオリンの子よね?高校からの持ち上がり組でしょ?」

「…そう、ですけど…」

 何か用ですかと言いかけて。
 目がとても鋭いことに気が付いた。

「ねえ、あなた月森さんと付き合ってたって本当?」

 何となく予感はしていた。
 ヴァイオリンが下手くそだとか、どうして大学でヴァイオリン専攻などやってるのかだとか。
 月森のことだとか。

「………………」

「何とか言いなさいよ」

 香穂子にとってまだ癒えぬ大きな穴。
 月森が単身ウィーンに渡ってもうだいぶ経つのに、香穂子の心にはぽっかりと大きな空洞ができたままだ。
 その穴を、土足で踏みにじっていく人たち。
 香穂子はそれを止める方法を知らない。
 踏みにじられるままに荒らされて、ぼろぼろになっていく。

「ねえ、何か言ったら?私が聞いてるのよ、答えなさいよ!」

 教室中に響き渡るくらいの大きな声で、机をばん、と叩く。
 びくっと香穂子の身体が跳ねる。しん、と静まった教室で、苛立たしげに目の前の学生が舌打ちした。

「あ なたの音、何度か聴かせてもらったことあるけど、あんなへったくそなボロボロの音でよく月森さんと釣り合うなんて思ってたわね?今でさえそうなんだから、 付き合ってた頃なんてもっと酷かったんでしょう?彼は世界の舞台に立つべき人だわ。あなたみたいにちまちまとママゴトみたくヴァイオリン弾いて満足してる ような人が隣にいていいわけないの。わかるでしょ?」

 何も言わない香穂子に、さらにたたみかける。

「いずれにせよ、もう別れたんならそれでいいのよ。彼があなたみたいな人を選ぶわけがないもの。高校の頃に付き合ってたとか言うのだって、あなたが勝手にそう思い込んでただけじゃないの?そう言ってストーカーみたいに付きまとって、彼を困らせてただけでしょう?ね?」

 猫なで声が酷くささくれだって香穂子に突き刺さる。彼女の言う事全てが酷く不快なのだが、香穂子は反論しない。ただ黙って俯き、一言も発しない。

「どうして何も言わないの?ストーカーしてたって自覚があるから?」

 誰も助けてはくれない。
 このクラスで香穂子の味方をしてくれるような人は。
 ただ黙って見ているだけだ。窘めもしない。

「黙ってれば被害者ぶれるから何も言わないの?だとしたら月森さんもとんだ性悪に捕まったものね。かわいそう」

 誰かがクスッと笑った。このクラスにもそう思っている人間がいるということなのだろう。そのことに気をよくした目の前の学生が得意げに笑う。

「まあいいわ。あなたがそういう人だっていうことがよくわかったし。今度彼に会うけど何か言伝はある?…あるわけないわよね、ストーカーごときに」

 近くで誰かが吹き出した。
 香穂子は、動かない。

「おい、その辺にしてやれよ?ストーカーなんて犯罪者と俺たちが同じクラスなんて御免こうむるぜ俺は」

「あはは、言えてるー」

 警察警察、などと誰かが言い出し、クスクス笑いが失笑となってクラス全体に広がっていく。
 もう、限界だった。

「…あの」

 一緒になって笑っていた学生たちがピタリと静かになった。香穂子の次の一言次第では何倍にも膨れ上がった毒矢を放ってやろうと鋭い目で見つめている。
 目の前に立っている女子学生の目をきっちり見返すと、少しだけひるんだように後ずさった。

「何よ」

「私が月森くんをストーカーしてたとか、言いたいなら好きなだけ言えばいい。でも、彼は確かに私を選んだ。その事実を否定することは月森くんを否定することだよ。あなたは彼のこと好きなんでしょう?なのに否定するの?」

「……………っ!」

 かあっと彼女の顔が怒りや恥や色々な感情が綯い交ぜになって真っ赤に染まる。

「そっ、…な…!あなた、何様だと思ってるの?!」

 もういい!
 勢いよく身を翻して踏み出した足に自分でつまずいて、その場にいた誰もがこらえきれずに笑い出した。

「何なのこのクラス!バッカじゃないの?!」

「バカはあんただろ」

 捨て台詞のつもりで吐き出したらしい言葉を誰かが混ぜ返し、更に笑いが大きくなった。
 怒りに身を任せて足音高く女性学生が出て行く。もう香穂子の前にも、このクラスの前にも来ることはないだろう。

「…あんたもさ」

 バカはあんただろ、と言った男子学生が香穂子に話しかけた。

「黙ってないで言い返したら?」

 呆れたような言葉の裏に、心配してくれているのがわかる。
 涙が出そうになるのをこらえながら、香穂子が曖昧に笑った。

「ムダだから。…でも、ありがとう」

 かたんと立ち上がる。次の講義に移動しなくてはならない。
 既にまばらになった教室を出る。さわりと風が吹いた。





 泣きたい。
 声を押さえることなく、思うだけ、声を上げて泣きたい。
 でもできない。

 あとどれだけ?
 いくつ夜を超えて、いくつ感情を捨てればいい?
 あとどれだけ月森を想う気持ちを殺せばいい?

「………ふ、……ぇ…っ」

 殺そうと、捨てようと、足掻けば足掻く程、心が拒む。
 月森を想う気持ちが膨れ上がって、破裂しそうになってもなお膨らんでいく。

「つきも…、…う、あ…あああああああ!」

 誰もいない狭い茂みの影でうずくまる。
 なんで?
 どうして?
 私は月森くんを好きになったのだろう?
 こんな想いをする為?

「会いた…、よぉ…っ!」

 会いたい。
 会いたい。
 会いたい…!

「うああああああああっ!」

 ただ月森を想いたいだけなのに。
 ひっそりと、月の光に淡く照らし出される花が咲くように。
 誰にも気づかれなくていい。
 誰も見なくていい。
 息を殺して、ただひっそり。
 なのに。
 誰もそれを許してはくれない。
 蒸し返して、抉って、哂う。




 こんなに遠い距離。
 心も少しずつ遠ざかっていく中で思い出す月森と過ごしたあの頃が夢のようで。
 思い出す日々はこんなにも鮮やかに浮かぶのに。
 月森がいないという事実が、香穂子の心を苛む。
 ただ好きだと思っている感情だけが残って、哀れな残骸だけが風にさらされている。
 そんな惨めな恋にしたかったわけじゃない。
 いつか迎えに行くと言ってくれた言葉さえも掠れて見えなくなっていく。
 もう、心が壊れそうだ。

(もう、嫌だよ…!)

 月森を想い続けることに疲れ切った心が、しぼんでいく。
 しぼんで、枯れてしまえばいい。
 いっそのことカラカラに枯れて、風にさらされて、なくなってしまえたら。

「…嫌だ…!」

 遠すぎて叶わぬ願いでも。
 壊れそうな心でも、願い続けなければならないのだ。
 ただ月夜に咲く花を抱いて、願い続ける。
 月森蓮という青年を。
 いつか迎えに行くと言ってくれた言葉を信じて。
 ただ、じっと耐えて想い続ける。
 次に会った時に違う誰かが隣にいるのかもしれない。
 月森もまた香穂子を想うことに疲れてしまって、自分じゃない誰かを選ぶのなら、自分も忘れよう。
 惨めな恋だったと、こんな想いをしたことも全部フタをして、終わりにしてしまおう。
 でも、まだ彼が忘れずに想ってくれているのなら。
 何もなかったように、笑って再会したい。
 だから。

「…まだ、…だいじょうぶ」

 心は壊れない。
 だから大丈夫。
 まだ、想っていられる。

「…大丈夫」

 呪文のように繰り返し呟いて言い聞かせる。
 そうでなければ、保てない。

「まだ大丈夫。私は、…私は」

 まだ、



 だいじょうぶ。









ヒトリゴト。
 香穂子ちゃん好きなんですよ、これでも。これ一気に書き上げた後で「さすがにコレ酷くね?」と一応思いましたよ!(一応なのか
 月光花という歌を聞いて浮かんだお話です。

2012.9.11