いつもそばに




 気が付いたら走り出していた。
 いてもたってもいられなかった。


……君にはがっかりだ……


 期待していた。
 彼女が彼女なりのペースででも、またヴァイオリンを一緒に弾ける日が来ることを。
 あの向上心と負けん気の強さで、きっと彼女ならばもっと上手くなるだろうと思っていたのに。
 信じて、いたのに。
 気付けば呟いていた。


……俺が馬鹿だったというわけか……


 言わずにはいられなかった。八つ当たりだとわかっていても。
 ヴァイオリン頑張るからと言ったあの言葉は嘘だったのか。あの時はそう思っていても、今はそう思っていない。「違う」と咄嗟に否定してみせようとして口を噤んだ香穂子を見て、本音の言葉だったのかと思ったのだ。
 否定、してほしかった。今のは冗談だよと笑って言って欲しかった。
 けれど、彼女はそうしなかった。
 だからそれが本音なのだと。月森は、そう思った。

 信じた俺が、馬鹿だったんだ…


 外で何かやってるらしい、と聞いて、香穂子だと直感で思った。
 全くの無関係な人間が、自分たちに対抗していると考えることもできたが、月森はそう思わなかった。

「行ってきたらどうだい?きっと君の想う人もいるかもしれないよ」

 それに返事をすることはなく、月森は何の表情もなく俯いている。
 行ったところで、今の香穂子の音は聴く価値などない。
 「無駄な努力」と言った人間の奏でる音楽など、この耳に入れたくない。

「なあ、蓮」

 ミュラーが言った。

「君は、本当はわかっているんだろう?自分がどうすべきか。今ここで君が望むようにしなかったら、君はきっと後悔する。その後悔を一生背負っていけるのかい?もしかしたら分かり合えるかもしれないこのタイミングを、君はみすみす逃すのか?」

 背を向けて走り出した月森に、したり顔でひらひらと手を振る男が「やれやれ」と溜め息をついた。

「恋せよ悩める青年!」


 音色ですぐにわかった。
 ミスも多いし、フォローばかりしてもらっているけれど。
 あの音色は…

(日野……)

 自分に向かって「無駄な努力に終わるだけだ」と言った香穂子。失望にも似た思いがした。
 いつかきっと香穂子とまたヴァイオリンを…音楽を、共に奏でる日が来る事を信じていた自分は、…それを信じてウィーンへ留学した自分は、何だったのだろう。
 技術力の向上ももちろんあるけれど、その先にある未来を考えた時に、思っていたのだ。
 香穂子と共にありたい、と。
 伝える術を知らなかった。伝えた所で、叶うとも思っていなかった。だから何も言わなかった。
 だから、なのだろうか。
 何も言わずに、出発日さえ黙っていた自分への仕返しなのかとも思ってしまう。

「そんなはず…あるわけないだろう」

 自分の後をくっついてきたのは、ヴァイオリンを教えて欲しいから。上手くなりたいから。自分の音を目標としているから。
 それだけのはずだとわかっているのに。

(期待、してしまう…)

 頑張るからと揺るがない瞳で告げた彼女に。
 今こうして、音楽を「楽しい」と、音で、身体で表現する彼女に。
 その音は、心は、…自分に向かっていてほしいと。

(…賭けて、みようか)

 ヴァイオリンを弾きたくなった。無性に。
 ただただ、香穂子を想って弾いていたかった。
 同じ想いを返してもらわなくてもいい。
 ただ、好きだと告げたい。きっと香穂子は困るだろうが、自分の想いを知っていて欲しかった。それで彼女がヴァイオリンを続けてくれるなら。…同じ道を歩めるのなら。たとえ受け入れられなくてもいい。それでも構わない。…そう言い聞かせて。

「日野…」

 周りから盛大な拍手を送られて、顔を赤らめながらぺこりとお辞儀をする香穂子を、人影からただじっと見つめていた。


「じゃあ後で」
「はい」
 先生の奢りで食事に誘われた月森は、母校の友人たちと少し話がしたいと言って残ることにした。
 誰もいない屋上へと向かう。
 制服を着てこの階段を上っていた時とは状況も気持ちも違う。自分がウィーンに留学しなければ、まだあの制服を着てここにいたのだなと不思議な気持ちになった。

(らしくない。感傷的な気持ちになるなんて)

 これから自分がしようとしていることのせいだろうか。
 ギイイと軋んだ音を立ててドアを開ける。風がさあっと吹き抜けた。


 ただ一人を想ってヴァイオリンを弾くなんてことは、今までになかった。
 けれども、今、弾かなかったら後悔するとさえ思っている自分が不思議だ。
 その「ただ一人」は、もう学校にいないかもしれない。皆と一緒に打ち上げにでも行ったかもしれないし、もしかしたら。

(来るかもしれない)

 パチリとケースを開けた。
 ここでヴァイオリンを弾いて、仮に香穂子が聞いたとしても、来ないかもしれない。

……今の君の音に、聴く価値があるとは思えない……

 そう言ったのは自分だ。
 その後であんなふうに楽しそうにヴァイオリンを弾いたのだから、香穂子なりに消化できたのかもしれないが、自分と顔を合わせづらいだろうから。
 だからきっと来ない。
 来なくてもいい。ただ自分が弾きたいだけだから。

(俺なりに、消化したいだけだ)

 香穂子を想う気持ちを。


 とにかく弾いた。夢中で弾いた。
 何かが自分の中から溢れそうになるのを、ヴァイオリンでしか表に出すことができない自分がもどかしい。
 けれども唯一の方法だとわかってもいるから、ただ無我夢中だった。

(日野。…日野…)

 出会ったのは練習室の前だった。コンクールに出ると知ってかなり辛辣な言葉も吐いたし、態度も取ってきた。なのに「月森くん」「月森くん」と追いかけてきては教えを乞い、ヴァイオリンの音色を聴き、話しかけてきた。
 狂わされてばかりだったなと月森は思う。
 香穂子に出会ってからは、毎日何かしらハプニングが起こっていた。それがほぼ全て香穂子がらみだった。
 自分のペースを狂わされたくなかったのに、いつのまにか巻き込まれて。けれどそれが自分も、周囲の自分を見る目も変わったと気づかされたのは、星奏を去ってから。


「……アヴェ・マリア……」


 そうだ。
 一番最初に香穂子に出会った時に弾いていた曲。
 コンクールで弾こうと思って練習していたら、見知らぬ普通科の女子生徒がいて驚いたんだったなと思い出す。
 月森の口元が綻んだ。

(君を想って奏でよう。微かでもいい、君に届くように)

 静かにヴァイオリンを構えた。


 夜の公園で合わせたこともあった。
 そうして自分は知ってしまったのだ。
 「恋」というものを。
 知らなくても良かった。でも自分は知ってしまった。
 もやもやとする気持ち。それはいつだって香穂子のことを考えている時で。
 こんな感情、知りたいとも思わなかった。むしろ知らなくてもいいとさえ思っていた。

(君が気づかせてくれた)

 人を想う気持ちを。人を好きになるということを。
 恋というものは、こんなにも苦しくて、切なくて、…愛しいものだということを。

(君が好きだ、日野…)


 どんっ、と衝撃が走った。
 ヴァイオリンに夢中で人の気配にまるで気付かなかったから、相当に驚いた。
 背後から回された小さな手。細い腕。その服装に見覚えがあった。

「日野?」





「それじゃあ」
「うん。気を付けてね」
 ああ、と頷いた月森が、そうっと手を伸ばす。ゆっくりと香穂子の頬に触れた。
「…月森くん。もう行かないと」
「ああ」
 見送りに来た香穂子を見て何かを察したらしい先生や仲間たちが「後で」「機内で」などと声をかけて先に搭乗口へと消えていく。申し訳なさそうに身を縮ませる香穂子に苦笑して、建物の隅へと移動したのが先ほど。
 搭乗ゲートはもう開いている。出国審査やゲートまでの移動を考えると、もう行かなければならない。
 けれど、もう少しこうしていたい。
 離れがたい思いでいる月森の手に、自分の手を重ね合わせた。
「もう会えなくなるわけじゃない。メールだってあるし、ちょっと高いけど電話で声を聞くことだってできるんだし」
「でも君に触れられない」
 こうやって目の前にいてくれないと、触れることができない。
「…もう、月森くんって、こういう人だったかなあ」
 苦笑してぎゅっと握ると、そうっと外した。

「私もウィーン行くからね!そしたらいっぱい会えるから」

 月森が目を丸くした。今、香穂子は…?
「今、何と言ったんだ?…ウィーンに、来るのか?君が?」
 う、と声を詰まらせて恥ずかしそうに俯いた。
「今の私には音楽学部に入るのも難しいけど。でも頑張って月森くんに追い付くから!追い付いてウィーンに行くからね!」
 しばらく目を丸くしていた月森が、ふ、と笑う。重ねていた手を、きゅ、と握った。

「待っている。…香穂子」


 出発時間ぎりぎりに姿を現した月森を、先生はにっこりと、仲間たちはニヤニヤと出迎えた。
「先生の所には行ってきたのか?」
「ああ、今行ってきた」
 ビジネスクラスの席を取った先生は、生徒たちとは違う場所に座っている。間に合ったことを報告に行くと「清々しい顔をしてるね」と一言で終わってしまったのだった。そして案の定仲間たちには散々からかわれる羽目になる。
 けれども、今の月森には気にならなかった。

……ウィーンに行くからね!……

 いつかきっと。
 ある日突然「来ちゃった」とやってくるのだろうなと思うと、自然と顔がほころぶ。それを見咎めた周りが囃し立てるけれど、そんなことはどうでもいい。

(待っているから)

 だからその日まで。
 淋しいだとか、そんな想いも全部ひっくるめて。


 いつも、心は君の傍に。











ヒトリゴト。
 いやあ長い!ムダに長い!!漫画最終巻の妄想補完話であります。
 本当はもう一つ書きたいシーンがあって、そのシーンとタイトルをひっかけたかったんですが。例によって例のごとく(?)暴走癖のある私の指が勝手にこんな…(言い訳
 いつか書けなかったそのシーンも書けたら、…いいな。
 今更な最終巻ネタですみません。

2011.10.6