初めて「彼」に出会ったのは、「彼」がまだ大学に入ったばかりの頃でした。
出会ったとは言っても、私が一方的に知っていただけのことです。
きっかけは、私と同じ仕事をしている友人から「気になる音を奏でる東洋人がいる」という話を聞いたからでした。
ヨーロッパの、小さな、けれどレベルは高いコンクールで、「彼」はヴァイオリンを歌わせていました。
年齢の割にはしっかりした音・・・技術的には優れていると感じましたが、感情的な部分を押し殺そうとしているように見えました。何か辛い出来事があったのか、その表情すら硬いものでした。
「彼の場合は、過ぎるほど感情的になったっていいんじゃないかな」
友人が呟きました。
私もその頃はそう思っていたんです。「彼」の辛い想いを知らずにいた、あの頃は。


蓮の華が咲く頃に




 名前を知ったのは少し後のことです。

 偶然にも私の名前と同じだと知ったときの驚きは、今でもよく覚えています。

 世界広しといえど、出会うべくして出会ったのかもしれないと、私はそう思いました。音楽的な興味ももちろんですが、「彼」個人への興味もあったのは確かです。どんな青年なのか、話してみたいと思うようになりました。





「いい意味でコンクール慣れしてきたね」
 友人が少し驚きを混ぜて言いました。

「最初の頃に比べて、かなり音が安定してきたようだね」

 悲しい、哀しいと叫ぶように奏でられていた音も、ここ1年ほどで落ち着いてきたように見えました。
 大学に入ったばかりの頃は入賞のほうが多かったようですが、ここ最近の「彼」はたびたび優勝のトロフィーを手にしていました。
 あと1年で卒業です。
 そろそろ色々なレーベルから声がかかる頃ではないでしょうか。
 実際そのような話も聞きましたが、「彼」はいい返事をしていないようでした。
 声をかけたレーベルの担当者に話を聞く機会があったので、「彼」についてどんな人物なのか聞いてみました。

「口数の少ない男だよ。言う事は一つ一つ的を得ている。けれど・・・」

 そこまで言うと、彼は少し黙り込んでしまいました。

「提示した条件が気に食わないというのでもなさそうなんだ。金の問題じゃないらしい。向こうの言う条件を全て飲むと言ってもダメだった」

「へえ、それは・・・珍しい」

「だろう?」

 金銭面で条件が合わずに契約破談となるケースはよくあることです。
 しかし「彼」は、金銭の問題ではないと言う。

「結局?」

 断られた理由を聞いてみましたが、彼は軽く首を振るだけでした。





 こうなると、俄然興味が湧いてきました。
「彼」には申し訳ないと思ったのですが、色々と調べさせて頂きました。
 高校を中退してこちらの大学に来ていること。
 家族構成。
 性格や嗜好。
 日本にいた時のコンクール歴。
 そして。

「・・・恋人がいたのか」

 私はその時に初めて気がつきました。
 初めて「彼」の音を聞いた時の、・・・あれは日本に置いてきた恋人を想っていた音色なのだと。

「もしかして」

 数々の大手レーベルの話を断っているというのは、この辺に関係があるのかもしれないと思い始めました。
 そして、私は再度話を聞いてみたのです。

「恋人のこと?ああ・・・言ったよ」

 私の勘は当たっていました。
 その話をした途端「彼」の表情が強張り、話ができるような雰囲気ではなくなってしまったのだと。
 数日後には断りの連絡があったのだそうです。
 その後、コンタクトを取りたくても断られるばかりになってしまいました。

「・・・恋人、ね」

 音楽家が恋愛で身を崩すことは、残念ながら少なくありません。
 しかし「彼」の場合は少し違うようです。
 これはもう会って話を聞くしかないと思いました。





「・・・遅くなりました」

 大学の応接室に通された私は、どうやって「彼」を口説き落とそうかと考えていました。
 日本にいる恋人の存在はタブーです。
 しかし触れないわけにもいきません。・・・こちらも仕事です、それで負債を抱えたくありませんから。
 約束の時間を10分程過ぎてから「彼」は現れました。
 ステージに立っている時のような気迫はなく、穏やかな雰囲気の青年だと感じました。
 そう思ったら、私が今まで想像していた「彼」の肖像が、ガラガラと音を立てて崩れていくのがわかりました。
 思わず笑ってしまった私を「彼」が怪訝そうに見ていることに、更におかしくなってしまいました。
 「彼」にしてみれば、挨拶も何もなく突然笑われているのですから、面白いわけがないでしょうね。それは申し訳なかったと思います。

「すみません、失礼しました」

「・・・いえ」

 話をしてみると、語学の心配もないようですし、話をする態度もきちんとしています。
 真面目な態度は、私にはとても好ましく感じました。・・・時折横柄な態度で臨む学生を見てきたことがありますが、結局そういった人たちは世界に名を馳せることなく終わっていきました。今彼らがどんな生活をしているのか、知る人は少ないでしょう。

「早速ですがお話に入らせて頂きます」

「はい」

 こちらの提示する条件を全てお話して、私は「本題」に入らざるを得なくなりました。

「最後に」

 小さく「彼」の眉が動きました。

「私としては触れたくないお話ですが、仕事として関わってくる以上は避けて通れません」

 そう言うと、「彼」の表情が硬くなりました。

「私どもとしては、『彼女』の存在は無視できないほど重要なものです」

「・・・そうでしょうね」

「あなたが望んでいるのならば、後ろ盾となる用意があります」

「・・・え?」

 恐らく、今までの話は「彼女」の存在を否定するものであったのでしょう。
 しかし私はそう思いません。
 プライベートで充実してこその「素晴らしい音楽」が生まれると信じているからです。
 「彼」が望むのならば、「彼女」との再スタートのバックアップも厭いません。

「勿論、あなたがそれを望むなら・・・ですが」

 驚きを隠せない表情のまま、その日は終わってしまいました。






 それから何度か「彼」と話をする機会を持つことができました。
 一番最初に会って以来「彼女」の話には一切触れませんでした。
 私としては「彼」からの反応は良いものだったと思っています。こうして何度もお会いできるということは、それなりに興味があるということでしょう?
 幾度となく話をしていくうちに、私は是非「彼」のマネージメントをしたいと思うようになりました。
 そうして、初めて「彼」と話をしてから一年ほど経った頃でしょうか。



「院に?」

 はい、と「彼」が頷きました。

「もう少し音を磨いたほうがいいのではないかと教授から話がありました」

「そうですか・・・」

 院に進めば、学業優先である以上仕事の量を抑えなくてはなりません。
 それに「彼女」との事も、それだけ解決が遅くなるということです。

「迷っているのですね」

「・・・・・・」

 音楽を究める道を選んだ以上は、院に進める話というのはとてもいい話です。
 しかし「彼女」の存在がそれを迷わせている、ということでしょうか。

「あなた次第です。私は待ちますから」

「・・・その間に、俺が他の会社と契約するということもありますよ?」

 少し冗談を織り交ぜて語るその表情は、年相応の青年のものでした。

「私は、貴方と仕事をする。何故かそういう気がするんです」

 しかも、そう遠くない未来に。
 そんな話をした矢先のことでした。

「貴方にお任せします」

 珍しく「彼」からコンタクトがあり、待ち合わせのカフェに着くなり「彼」は言ったのです。
 突然の事で動きを止めた私に、「彼」は苦笑しました。

「実は、友人から貴方の事を聞きました。・・・ロータスさん」

「!!」

 今まで本名しかお教えしたことがなかったのに、何故「彼」は私のニックネームを知っているのですか?
 その種明かしを「彼」はいともあっさりとしてみせたのです。

「大学の教授が教えてくれました。俺の名前と同じだと」

 教授の名前を聞いて、私は驚きました。
 かつての師匠だったからです。
 私もヴァイオリンを学び、「彼」のようにプロとして・・・私の場合はオーケストラ団員として・・・自立したいと思っていました。けれど、私の実力は「ちょっとヴァイオリンが上手な人」止まりでした。
 夢を諦めた私に、師は今の仕事を紹介してくれたのです。
 元々人にか関わることが好きでしたので、今のエージェントに腰を落ち着けてからは、天職だと思っています。
 その師が・・・「彼」を教えていたなんて。
 なんという偶然なのでしょうか。

「俺はあまり、偶然や勘などには左右されないのですが」

 少し恥ずかしそうに「彼」は言いました。

「あなたとは良い仕事ができそうだ」

「・・・ありがとうございます!」

 私は嬉しくて仕方ありませんでした。
 願っていた「彼」のマネージメントができるのですから。





 それが、間もなく夏を迎えようかという、そう・・・ちょうど「蓮」が咲き始める初夏のこと。
 早速契約を交わし、CDデビューに向けて話が進み始めました。
 収録したい曲は全て「彼」の選曲です。
 大学の講義の合間を縫って、忙しいレコーディングの日々が始まりました。
 とても「彼」は意欲を持って臨んでいたことがわかります。
 きっと「彼女」に捧げたいのだろう選曲に、会社側は当初良い顔をしませんでしたが、その音色で黙らせるほど感情豊かな演奏でした。
 いい事があったのか、吹っ切れたのか・・・私にはわかりませんでした。
 そして「それ」は起きたのです。





 それ、は突然でした。
 院に進むかどうかをまだ迷う「彼」に、日本の友人から電話がかかってきたと「彼」は告げました。
 そして、その友人が「彼女」をもらう、と言うなり、電話が切れてしまったのだそうです。
 あの時の「彼」は、今思い出しても相当焦っていました。
 レコーディングや大学の講義もある中で、「彼」は日本に戻りたいと言いました。
 私は当初止めようと思ったのですが、「彼女」とのことはバックアップすると申し上げたことは忘れていません。
 今この時に日本に戻らなければ、「彼」は人生最大の後悔を背負うことになったでしょう。
 私は急いでチケットの手配をし、「彼」を空港へと送り届けました。
 ヴァイオリンとチケット、パスポートだけで「彼」は日本へと発ちました。
 また再びこの地へ戻ってきた時には、きっと朗報が聞けるはず。そう確信していました。



 一週間ほどで「彼」はウィーンへと戻ってきました。
 幸せに満ちた表情で、「彼」は微笑んでいました。

「実は・・・」

 私は「彼」から聞かされたニュースに驚く一方、心のどこかで「当然だ」と思っていました。

「結婚しようと思っています」

「・・・それは、良かったですね」

 祝福の言葉をかけた私に、少しはにかむ表情が印象的でした。
 今はレコーディングと学業優先だから一週間ほどで帰ってきたけれど、まとまった時間ができたら再度帰国したいこと。
 一度「彼女」をウィーンへ招待したいこと。
 そして。

「院へは進むのをやめようと思います」

 音をもっと磨けるという話は大変に嬉しいが、「彼女」が傍にいるのならば、それだけで自分の音は満たされる・・・「彼」はそう言いました。
 私としても「彼」に合った仕事をいくつか保留していますから、それらをこなしてもらえるのは助かります。
 ですから私は即座に結婚に賛成しました。
 勿論、結婚そのものも祝福していますよ?
 私は仕事が結婚相手と思っていますから、生涯の伴侶を得る気持ちは正直よくわかりません。
 ですが、「彼」の今までにない微笑みを見た時に、誰かが傍にいるというのも悪くないと思うようになりました。



 それからの「彼」は、エンジンが全開にかかったレースマシンのようでした。・・・と言うと大げさかもしれません。
 ですが、それくらい仕事や講義を精力的にこなしていました。



 大学を卒業して、一度日本に帰国するという「彼」に同行してほしいと頼まれ、私もついていくことになりました。
 そして「彼女」・・・つまり、貴女と初めてお会いしたのです。
 それから先は貴女もご存知の通りです。
 結婚式を挙げて、貴女がウィーンへとやってくるまでの間、「彼」・・・レンは本当に忙しかったんです。
 何度も日本とウィーンを往復して・・・心配する私をよそに、レンは満ち足りた表情でした。
 水を得た魚とは、まさしくレンのことを言うんでしょうね。・・・まあそう怖い顔をしないで下さい、マエストロ。





 貴方は私の希望なんです。
 もっと世界中の人たちに、貴方の音を聴いてほしい。
 ただそれだけなんです。
 香穂子さんという伴侶を得た貴方の音色は、世界を幸せにする。
 僕はそう信じています。
 少しハードワークかもしれませんが、私には私の信条の元で、貴方のマネージメントをしているんです。
 その証拠に、無理をするほどの仕事は入れていないでしょう?
 だから私を信じてください。



 ああ、今年もまた蓮の花が咲く季節になりましたね。
 暑くありませんか?・・・そうですか。
 僕の遠い故郷では、それはそれは綺麗な蓮がたくさん咲くんです。
 そういえば、蓮の花言葉をご存知ですか?



「遠くへ去った愛」



 だそうですよ。










ヒトリゴト。(ブログより一部

唐突に一番最初辺りのシーンが浮かんできて、書いてしまいました。
一人語りってちょっと面白そうかも、と思ったんですが・・・(力不足
花言葉はその他にも色々あるのですが、本文で書いた「遠くへ去った愛」っていう韻というか・・・響きが素敵だなと思ったので。
書けて大満足♪(自己満足w