眠っていいよ




 落ち込んだ時に駆け込むのは、決まって彼の家。
 だって、他に泣ける所がないから。
 学校では友達に心配かけるし、私を良く思わない人たちからこれ見よがしに笑われる。
 家にはお母さんがいて、小さな変化も見逃さない。ヴァイオリンを続けていくことにあまり賛成ではない家族に泣いてる所を見られたら、即座に「そんなに辛い思いするならやめなさい」って言われるに決まってる。
 だから、いつも駆け込むのは。
 私が唯一、素直になれる場所。


「ごめんね、いつも」
 ようやく一言を搾り出すと、土浦くんは一瞬きょとんとした後で「気にすんな」とぽんと頭を撫でた。
「学校じゃ誰が見てるかわかんねえしな」
「うん」
「家の人には見せたくないもんな」
「うん」
「後でピアノ弾いてやるよ」
「うん」
「何か飲むか?」
「うん」
「キスしていいか?」
「うん・・・へっ?」
 よし、と満足そうに頷いて、土浦くんの端正な顔が近づいてきた。
「え、えっ、ちょ、待っ・・・」
「うん、って言っただろ?」
 言うが早いか、掠め取るように唇を重ねて。
 あっという間に離れていった。
「何か飲むもの持ってきてやるよ」
 ごちそうさん、と手をひらひら振って部屋を出て行く背中に投げつけたクッションは一瞬遅くて、ドアに派手な音を立てて落ちた。


 暖かいココア。
 少し甘めのそれと、土浦くんのお母さんがピアノ教室のお茶請けに用意していたというパウンドケーキ。
「俺が作ったんだよ。自分で作ればいいのにさ」
 ヤケドしたら教えられないとか言うんだぜ俺に、とか言いつつ、ちょっと自信作だなんて胸を張るところはかわいいと思う。・・・言わないけど。
 いただきますと手を合わせて一口食べると、ふわふわしていて甘すぎず、とてもおいしかった。
「おいし・・・」
「だろ?」
 ぽん、と頭を撫でるのは土浦くんの癖。
 その大きくて暖かい掌で撫でられると安心する。
「う・・・」
「おい待て、俺か?!」
 違うと首を振るけど、涙は止まらない。
「しょうがねえな」
 ぎゅっと抱きしめられれば、さっき治まったはずの涙腺がまた崩壊してしまう。
 さっきとは違う涙なんだよと言いたいけど、口を開くと嗚咽になるだけで何も言えない。
「俺のせいにしていいから、思う存分泣いちまえ」
 ずっとこうしててやるからっていう言葉にまた泣けてきて、土浦くんが「ばかだな」と笑う。
 だって土浦くんの腕の中は居心地がいいから。


「ピアノ、弾いてやるよ」
「・・・うん」
 リクエストを聞かれたけど、お任せにした。
 両手をぐるぐるしながらピアノに向かう。これも土浦くんの癖だ。
 少し考えた後で弾き始めたのは「別れの曲」。土浦くんに出会うきっかけになった曲だ。大きな背中が時々ふわりと揺れる。
 土浦くんの弾くピアノは、外見に反して(って言うと怒られるから言わないけど)とても繊細な音がする。豪快な時は力強くて、優しい曲の時は、どこまでも甘えさせてくれる、そんな音。
「土浦くんといると、安心できるんだよ」
 彼の背中に向かって言えば「そうか」と返ってくる。
「ありがとね、土浦くん」
 ・・・耳が赤い。


 穏やかな時間。
 土浦くんのピアノの音が、泣きつくして空っぽになった私の頭と心に染み渡っていくようだ。
 目を閉じて、小さく息を吐き出した。
 私のために奏でられるその音楽は、ふわふわと眠りを誘う。
 ・・・別れの曲。
 中傷やそういったことを忘れて、また新しく「私」を始めよう。
 堂々としていればいい。
 私は負けない。誰にも、・・・自分にも。
 そうやって気を張ってるから時々こうやって泣きたくなるんだろって土浦くんは言うけれど。
 もっと私に自信が持てるまでは。


 ただ彼の音楽に全てを委ねる。
 少しずつ遠のく意識の中で、土浦くんが何か言うのが聞こえた。
「・・・な、に・・・土浦く・・・」
「眠っていいよ」


 ああ。
 こうやって全てを許してくれるから。
 受け入れてくれるから。
 私は、彼が好きだ。
 夢なのか現実なのかわからない狭間で、そう思ったのを最後に、私の意識はぷっつりと途絶えた。



これは土浦視点の火日です。

二人の共通点って結構ある、と私は思うのです。