変わることなどない。

 そう思っていた。

 けれど、どこかでわかっていたのだと思う。

「変わらないものなどない」

 ということを。




明日も明後日も




 毎日ヴァイオリン漬けの日々は楽しい。

 うまくいかずに苛立つこともあるが、それは自分が成長している証なのだと思うから「嫌だ」と思うことはない。

「転科すれば良かったかなあ・・・」

「今からでも遅くはないと思うが」

 コンクール終了後、熱心に音楽科への転科を勧めた月森は、この話が出ると諦めることなく誘ってくる。

 けれど。

「・・・ううん。決めたんだもの。音楽科には行かない。今のままで頑張る」

「そうか」

 残念そうに、けれど「わかっている」と苦笑う月森に「ごめん」と小さく頭を下げる。小さく嘆息したのが聞こえた。

「俺は君と共に音楽科に在籍できたらいいと思っていることは常に変わらない。君の音楽はきっと色々な影響をもたらすだろう。君と一緒に音楽を高め合えたら、これほど嬉しいと思うことはない」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど。でも私は今のやり方が合ってると思うんだ」

 音楽科に移れば、趣味程度で終わるわけがない。音楽を職業にして食べていくために、そういったカリキュラムの中に組み込まれて大人しくできる性質ではない。

「ヴァイオリンで食べていこうとは思ってないの。趣味程度っていうと月森くんに怒られるだろうけど、楽しんで弾いていきたいから。自分が楽しくて、それを聞いてくれた人たちに伝わったら、それでいい」

「君の考え方には、俺は理解できない部分もあるが・・・俺が無理矢理どうこうすることじゃない。君が決めたのなら、そうすればいい」

 うん、と頷く。誰もいない小道に入って、手を差し出した。

 ふ、と小さく笑った月森がその手を取る。

「明日も明後日も、ずっとこうしていられたらいいのにな」

「それは困るな」

「どうして?」

 月森が少し考える素振りを見せた。

「俺は、このままでいいと立ち止まっていたくない。君とのこともそうだ。今のままがいいと思っていたくない」

「・・・どういうこと?」

「つまり」

 月森が足を止めた。自然、香穂子の足も止まる。

「君のヴァイオリンと同じで、少しずつ前に進みたい」

 なんだか微妙な言い回しだなと眉間に皺が寄る。「悪い意味ではなくて」と少し焦ったように付け加えた。

「急がずに、俺たちのペースで、少しずつ。そういう意味だ」

「前に進むって、どういうこと?」

 今のように、一緒に登下校して、ヴァイオリンの練習をして、休日は月森の自室でのんびりしたり街へ出てぶらぶらしたり。

 それだけではないのだろうか。

「違うな」

 意味ありげに月森が笑う。そんな表情が珍しくてぱちくりと目を瞬かせた。

「いつかわかる。できれば早いうちに気づいてくれ」

「今教えてくれないの?」

「いいのか?」

 日も落ちた小道。街灯がそこかしこで灯り始めている。その光を背にした月森の表情が見えなくて、少しだけ月森が怖いと思った。

「・・・いいのか、香穂子?君の意思に沿わない進み方をすることになるかもしれない」

「月森くんだったら、そういうことはしないでしょう?」

 僅かに鼻で笑う。

「俺だって一人の人間だ。時々どうしようもない感情を持て余すことだってある」

「月森くんが?」

 感情を理性で全て押し殺しているような印象さえある月森が、感情に振り回されることなんて、あるのだろうか。

「・・・もう一度聞く。君の意に沿わない進み方になったとしても、君はそれで構わないのか?」

「うーん・・・。あんまり酷いと怒ると思うけど。でもやっぱり月森くんはそんなに酷いことしないと思う」

「信じられたものだな、俺も」

 自嘲気味に呟くと、香穂子を真正面から見下ろした。

「目を閉じてくれ」

 言われるままに瞼を閉じた。街灯の明かり越しに、月森が動く気配がした。

「香穂子・・・」

 思いのほか物凄く近くで呼ばれた事に驚いて思わず目を開ける。すると、月森の瞳が文字通り目と鼻の先にあった。

 琥珀色の瞳。涼やかな、さらりと零れ落ちた髪。端正な顔立ちだと知ってはいたけれど。こうして間近で見ると本当に綺麗なんだなとどこか遠くのほうで思ってみたり。

「!!」

「目を閉じてくれ、と言ったはずだが」

 息がかかる。それがとても恥ずかしくて一歩後ずさった。

「もしかして・・・前に進むって、そういう、こと?」

 月森は答えない。

「私で・・・いいの?」

「今更」

「でも・・・だって」

「君が嫌ならやめる。もうしない」

 身を起こして背を向けた月森が一歩を踏み出す。こつこつと響く靴音が、香穂子に追ってきてほしいと告げている気がして。

「月森くん!」

 思わず腕をつかんでいた。

「待って、月森くん。あのね、嫌じゃないんだよ。ただ、その・・・びっくり、しちゃって」

 ずっとこのままでいいと思っていたから。

 月森がその先を望んでいるなんて、知らなかったのだ。

「いいんだ、香穂子。無理をする必要はない。俺たちのペースで、と言っただろう?君がいいと思えば、そういった機が訪れるだろう」

「・・・うん・・・」

 気にするなと月森は言う。けれども、気にしないわけがない。

「あの、ね。月森くん」

「どうした?」

 いつもと変わらない、優しい微笑みを浮かべて振り返る。先ほどまで激しい感情に流されそうになっていたとは思えないほどの。

「私、鈍いから。言われないとわかんないこともいっぱいあると思う。だから、・・・あの」

 辛抱強くその先の言葉を待つ月森の腕を掴みなおして。

 背伸びをした。

「・・・・・・・・・・・・」

 月森が驚いたように目を見開いた。

「と、届かない・・・」

 意を決して、それこそ清水の大舞台から飛び降りるくらいの気持ちだったのに。

 届かないなんて!

「恥ずかしい・・・!」

「ありがとう、香穂子」

 今までに見たことがないほど綺麗に微笑んだ月森の手が、香穂子の頬に重なる。

「・・・・・・・・・・・・」

 目を見開いたまま。

 重ねられた唇の熱を受け止める。

 月森の手は少し冷たい。けれど唇は温かい。その熱が気持ちいい。

「香穂子」

 静かに離れていく月森を、ぼうっとした瞳で追う。心地いい熱で、ふわふわと浮いてしまったような錯覚に陥る。

「好きだよ、香穂子。俺の感情に振り回される時もあるかもしれないが・・・二人の速さで、少しずつ、慣れていけたらいいと思う」

「・・・うん」

「明日も、明後日も。少しずつ変わっていけたらいい」

「・・・うん」

 差し伸べられた手を握る。先ほどより少し熱い気がするのは何故だろう。

「好きだよ、月森くん」

 答えは力の込められた手の中に。

 

 

 

 

 

 

 

2011.9.13UP