君と俺とやさしい音




 弓を下ろす。
 ふ、と息を吐き出した。

「・・・なんか」

 意外なものを見た、とでも言いそうな視線で、日野が振り返った。

「月森くん、音が違うね」

「・・・別に。いつもと変わらないが」

 空気を入れ替える為に練習室の出窓を開ける。
 内心俺は驚きを隠せなかった。
 授業でも同じことを指摘されていたから。





『音が柔らかくなったね』





 彼女が・・・日野が更に言った。

「なんか、柔らかいね。すごく優しくて」

 やさしい。
 そんなことを言われるとは思わなかったから、今度こそ驚いて聞き返してしまった。

「優しい?」

 あっ、と彼女が声を上げた。

「月森くんが優しくないとかじゃなくてね?」

 何気なく失礼なことを言われたが、当の本人は全く気付かず、指を唇に当てて考え込んでいる。
 自分でもよくわからないのだろう、首を何度も傾げている。

「考えるなら後にしてくれないか」

「え、うん・・・うーん」

「日野」

「あっ!」

 日野が唐突に叫んだ。何事かと見れば「わかったよ!」と嬉しそうに笑っている。

「わかったよ月森くん!」

「なにが?」

「優しい音の正体」

 ・・・彼女に、知られた?
 俺の、この感情が向かう先を。
 この音色が君へと向かっているその事実を。

「今は関係ないだろう。それよりも練習を始め・・・」

「関係あるよ」

 ほんの少し前には無邪気に笑っていたのに、突然大人びた表情で俺を見つめる日野に、俺は・・・

「だって」

「日野・・・!」

 言うな・・・!

「ほら、私を呼んでくれる声と同じ」

 ああ、知られた。
 気付かれてしまった。
 音は嘘をつかない。
 普段から彼女に言い含めていることだけに、俺は何も言えなかった。
 いつものように「関係ない」と言い返せばいい。
 気のせいだと。
 この想いを、暴かれたくない。
 よりにもよって、日野自身によって引きずり出されようとしている。
 ・・・それならば。

「それで?」

「え?」

「君を呼ぶ声と、俺のヴァイオリンの音が同じだと君は言った。・・・それで?」
 全てを曝け出してしまえ。
 いつになく自虐的な気持ちで、俺は小さく唇を歪めた。

「うまく言えないんだけど・・・」

 君の、太陽のような光に晒されて滅びていく。
 それで、いいんだ。
 それでいい。

「人を好きになった気持ちが溢れてるというか・・・え?あれ?」

「・・・・・・」

 容赦なく引きずり出された俺の想いが、さらさらと灰のように音を立てて朽ち果てていく。
 俺はそれを、心のどこかで悦びながら見つめていた。
 なのに。

「って、えっ、あれ?!」

 俺が君を呼ぶ声と、今奏でた音色が同じ。
 人を好きになる気持ち。

「・・・そういうことだ」

「えええええっ?!」

 日野が叫んで後ずさる。
 狭い上に音響処理がしっかりしている練習室で叫ばないでくれと思わず言うと「ごめん」とうなだれた。

「気にしないでくれ」

「え?」

 俺は日野に背を向けた。

「君は気にしなくていい」

 忘れてくれと、続けるつもりだった。
 そのはずだったのに。

「気にしなくていいなんてことないよ!」

「・・・日野?」

「そんなこと、言わないでよ・・・」

 カツカツと靴音が響き、彼女が近づいてくる。
 窓の外を見つめる俺の横顔を、意志の強い視線が射抜いた。
 俺は、身じろぎひとつできなかった。

「わたしは」

 その先の言葉を聞きたいと焦がれる自分と。
 聞いてはいけないと制する自分。
 相反する気持ちがせめぎ合うのもほんの一瞬で。
 ・・・勝ったのは。

「私は、・・・月森くんが好きだよ」

 聞こえた言葉がにわかには信じがたくて、ゆっくりと隣にいる彼女を見下ろす。
 日野はヴァイオリンを握り締めて、じっと俺を見つめていた。

「私は、月森くんが好き」

 ゆっくりと繰り返された言葉に。
 同じようにゆっくりと、暖かい気持ちが追いついてくる。
 粉々に朽ち果てたと思っていたものが、君の手によって暴かれてなお、この手に・・・残っているなんて。
 俺は君に何度救われるのだろう。

「俺は・・・俺も」

 君が好きだ。
 そう言いたいのに、言葉が喉に張り付いて出てこない。
 俺も同じだと。
 不安そうに彼女の瞳が揺らいだ。

「俺も、君が・・・好きだ」

 掠れてしまった声で、俺はようやくその言葉を搾り出した。





 先ほどとは明らかに違う音色が俺たちを包む。
 お互いに一方通行だと思っていた音が通い合う。
 寄り添うかのようなその音に、嬉しさや喜びが溢れている。
 ずっとこの音に身を浸していられたらいい。
 君と一緒にこの音色の海に他ゆたっていられたならば、どんなにいいだろう。
 けれど。
 終わりは訪れる。
 弾き切りたくないと心のどこかで望む自分に驚きを覚えた。
 最後の一音が空気に混ざって消えて。
 弓を下ろすと、小さなため息が聞こえた。

「私、いま、すっごく幸せ」

 それは唐突に、すとん、と落ちてきた。

「ああ」

 この気持ちは、そう言うのだな。

「俺もだ」

 幸せだと。

 






 君が同じ想いでいてくれるから。

 君に向かう音色は、こんなにも。




 やさしい。

 

 

 

 

 

 

 

きみへ還る音 へ続きます。