YES or NO




 最近、香穂子の様子がおかしい。
 何かを言いかけて、俺と目が合うとぎこちなく逸らす。
 大概は黙って見つめていると自分から白状するのだが、今回はなかなか言い出さない。
 そんな様子を見せるようになったのはいつからだったか思い出そうとして。

(そういえば)

 先日、高校の友人からメールが来たと言っていたな。
 日本にいる友人たちの近況が書かれてあったと言っていたが、思えばその時に既に前兆はあった。
 何度か俺を呼んでは「・・・なんでもない」とやめてしまう。
 そうか、あの時からなのか。
 近況報告の他にも何かあったのだろう。
 問いただすべきか少し迷う。
 根掘り葉掘り聞き出すのは、彼女を束縛するようであまり好きではない。
 がしかし。ここまで来たら今更か。

「レン。着きましたよ」
 車の中で考え込んだまま下りようとしない俺を、マネージャーが怪訝そうに振り返る。
「ああ、すまない」
 明日のスケジュールをざっと確認して車を下りた。続いてマネージャーも下りてくる。
 彼はいつも俺が家に入ってドアを閉めるまで車を出さない。
 熱狂的なファンがいないとも限らないから用心の為だと言われてからは、気にしないようにしている。
 最初はそこまで徹底しなくてもいいのではないかと思っていたのだが。
 事が起きてからでは遅いのだと言われて、今となっては俺も納得している。
 普段のマネージメントも素晴らしい仕事振りを発揮してくれているから、俺としては貴重な人材だ。

「ただいま」
 しっかりと施錠したことを確認する。
 靴を脱ぎ・・・海外では靴のままでの生活だが、香穂子が落ち着かないというので玄関でスリッパに履き替えている・・・スリッパに履き替える頃には、リビングからぱたぱたと駆けてくる音が聞こえた。
「おかえりなさい!」
 ただいまとおかえりのキスは必ず。
 二人で決めた、彼女いわく「お約束」のひとつだ。
 そんなことも決められなくてはいけないのかと思うが、出掛けに言い合いをしてしまった日には効果があったことを考えれば、あながち悪くはないのかもしれなかった。

 ヴァイオリンの手入れをしてからリビングへ。
 その頃には夕食ができている。
 俺が比較的早く帰れる日には、多少遅くなっても二人で食べる。食事はできる限り一緒に、というのも「お約束」。
 いただきますと手を合わせて、何気なく香穂子を見ると、普段通りの表情だった。
 後で聞いてみることにして、今はまず目の前の食事に集中しよう。

 夕飯の後のお茶は、緑茶なら香穂子。紅茶なら俺が淹れる。
 俺の淹れる紅茶がおいしいからと言うのだが、彼女の淹れたものも悪くはないと思っている。
 しかし、香穂子が喜んでくれるなら、容易いものだ。

「やっぱり蓮が淹れる紅茶はおいしいね」
 にっこりと嬉しそうな表情につられそうになる。
 彼女は飲食に関することは、本当に嬉しそうだ。食べることに然程執着しない俺に「もったいない」と言ったのはいつだったか。
 世の中においしいものがたくさんあるのだから、一度きりの人生の中でどれだけ楽しめるか。
 そんなことを熱く語っていたな。
「どうしたの?」
 カップを見つめたまま動かない俺に、香穂子が問いかけた。
 考えていたことを正直に話すと恥ずかしそうに俯く。
「そんな昔のこと覚えてたの?恥ずかしいなあ」
「しかし、君にそう言われてからは、俺もできるだけ食べることを楽しむようには心がけているつもりだ」
「朝は相変わらずシリアルだけど?」
 ぐ、と詰まる。
 気付いた頃には既にそういう習慣になっていたから、それを今更変えるのは難しい。
「わかってるよ。私だってクセとかいきなり変えろとか言われるの難しいもん」
 ヴァイオリンに関する癖などはすぐに修正できるのに、生活に関する事はなかなかできないらしい。

「昔のことで思い出したのだが」
 さりげなく、のつもりだったが、少し様子がおかしいかもしれない。
 可能な限り気付かれないように、普通を装って、俺は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「天羽さんからのメールに、俺のことで何か書いてあったのか?」
 香穂子が突然固まった。
「悪いことで何か言われているのなら教えてほしい。今でもそれが癖となって現れているようなら、修正す・・・」
「悪いことじゃないよ!」
 言葉を遮って、彼女が顔を上げた。が、微妙に視線が合わない。
 この微妙に合わない視線というものが、俺を不安にさせる。
「では、何と?」
 それを極力表に出さないように。慎重に振舞わなければ気付かれてしまう。
 香穂子は黙ったまま。
「香穂子」
「怒らない?」
 上目遣いに尋ねられることに、俺は弱い。しかし今ここで負けるわけにはいかない。
「・・・努力はしよう」
 散々迷った末に、ようやくその薄い唇が開かれた。
「あの、ね・・・」

「・・・は?」
 俺は正直、耳を疑った。
「すまないが・・・もう一度、繰り返してくれないか」
「だから、あの・・・蓮が留学してる間に、誰か付き合ってる人がいたんじゃないかって」
 4年もの間、あれだけ苦しい想いをして君だけを想い続けていたというのに。
 彼女の友人は、俺に付き合ってる人がいて、さらに・・・そういった関係もあったのではないかと?
 怒りもあるが、それよりも香穂子がそれを信じかけていることのほうがショックだった。
「だって、男の人ってそういうの我慢できないっていうし、蓮はもてるでしょう?だからきっと言い寄ってくる女の人とかいたんじゃないかって」
「それで、そういう関係もあっただろうと」
 クッションに顔を埋めて、香穂子が頷いた。
「それを、君は・・・俺に確かめもせずに信じようとしているのだな」
「ちがっ」
「違わないだろう」
 言い方が少しきつくなってしまう。明らかに傷ついた表情で香穂子が俯いた。
「何故俺に聞かなかった?・・・俺が信用できないというのなら、留学時代の友人たちに聞いてもらっても構わないが」
「信用できなかったわけじゃ、なくて・・・」
 言葉が小さくなっていく。
「では?」
「は、恥ずかしかっただけなの!」
「恥ずかしい?」
 俺に君以外の人間を傍に置いていたかもしれないという話の、どこが?
「だって・・・」
 菜美が、と言葉を区切る。・・・彼女が何か入れ知恵でもしたのだな。
 黙って先を促すと、観念したのか消え入りそうな声で話し始めた。
「男の人のほうが、そういうの我慢できないって言うみたいだし。4年もの間、・・・自己解消、してるだけなんて、あんなにモテる蓮なら有り得ないでしょ、って・・・」
 顔を赤くして、囁きに近いほどの小さな声で。
 それでも香穂子は真実を話してくれた。・・・内容はともかくとして。
「何ということを吹き込むんだ、彼女は」
「たっ、たまたまそういう話題になっただけで・・・!」
「それにしても、あまり気分のいい話じゃないな」
「・・・ごめんなさい・・・」
「君が謝ることではないだろう」
 今度日本に帰国した際にはきっと取材に来るだろうから、きっちり話しておなかくてはならないな。
「菜美のこと、怒らないでね?」
「・・・保証はしかねる」
「蓮・・・」
 悲壮な表情で俺を見つめているが、気付かないフリで冷めかけた紅茶に口をつけた。苦味が広がるばかりのそれは、今の俺と同じようだった。
「4年もの間、ずっと俺は君だけを想って過ごしていた。早く君に会いたかった。それだけで、あの長い時間を過ごしていた。なのに君は・・・」
「私だって!」
 瞳には涙が浮かんでいる。一番俺が見たくない、彼女の涙。
「私だって、毎日想ってたよ。元気かな、今何してるのかなって。ずーっと想ってたよ」
 一粒、雫が流れ落ちた。

「すまなかった」
「え?」
 君を泣かせてしまったこと。こんな言い合いをする為に一番近くにいるわけじゃない。
「・・・私こそ、ごめんね」
「いや、君が天羽さんの話を信じかけていたのも当然といえば当然なのだろう」
 立ち上がり、香穂子の隣に座る。髪を撫でてから、力を入れずに抱き寄せた。
「俺には君だけだ」
「蓮」
 君しかいらない。君だけがいれば、それでいい。
 君のいない俺など、存在できない。
「蓮・・・」
 深く口付けながら、そのまま体重をかける。あっさりと力を失った体が、ソファに沈む。
「4年分だ」
「・・・え?」
「一人で耐えた時間の分。君に埋め合わせてもらおう」
「一人って・・・え?」
 着ているものを半ば強引に剥ぎ取り、ソファの下に放り投げる。自分のシャツのボタンを外すのもそこそこに、乱暴に脱ぎ捨てた。
「一晩では足りないかもしれないから、そのつもりで」
「え、ちょっ・・・蓮?!」
 待ってという懇願は唇に深く押し戻した。
 明日も仕事がある。けれど彼女と過ごす夜はこれだけではないのだから。
「俺が仕事に行っている間、一瞬でも忘れられないようにしてやる」
 覚悟するんだな、と。
 耳朶を甘く舌でなぞりながら囁くと、抵抗しようと試みていた手がぱたりと落ちた。







ヒトリゴト。(ブログより

えー・・・こうなるハズじゃなかっ・・・