ぎこちない動作でひとつになる

 




 

 ステージに向かいながら、一人思い出してしまう。

 細くて白い手首。
 しなやかな指。
 柔らかな、女の子の感触。

「………っ」

「月森先輩、どうかしましたか?」

 いつの間にか後ろを歩いていた志水に声をかけられて、本気で驚いた。

「…! 驚かせないでくれ!」

「すみません、僕ずっと後ろを歩いてたんですけど…」

 足音や気配でわかるだろうと言いたいらしい。気付かなかった自分が悪い。

「君に当たることじゃなかったな。…すまなかった」

「いえ…」

 行きましょう、と今度は志水が先を歩き出す。その後ろを歩きながら、思考はやっぱり香穂子に戻ってしまう。

(演奏前に、こんなこと…)

 触れた指先。
 驚きに見開かれた瞳。
 ふにふにとした、力を入れればすぐに壊れてしまいそうな、華奢な手。
 その手を。

「…………っ」

 ぶんぶんと首を振る。
 演奏に集中しなくてはと思うのに、さっきの光景が頭から離れない。

「月森先輩?」

 はあ、と思わず出た溜め息に、志水が振り返った。何でもない、と何でもないわけない表情で返してみる。

(…香穂子の顔を、見れないな…)

 演奏を始める合図はいつもアイコンタクト。ヴァイオリンで始まる曲だから、どうしても目を合わせないわけにはいかない。

(しっかりしなくては)

 そう思いつつも思い出すのは香穂子のこと。
 おまじない、というのは実際してもらっていたから嘘ではない。
 でも高校生にもなってあんなことをして効果があるとも思えない。
 緊張が解けたと言ってくれたのは、きっと香穂子なりのお世辞なのかもしれなかった。

(…後で、謝るべき、…だろうか…)

 感謝するのはこちらのほうだと言っておきながら。
 どうしようかと、深く息を吐き出した。



 わざとらしく音を立ててキスをした自分が信じられない。
 香穂子は気付いただろうか。
 ほんの一瞬、舌先でその白い肌を舐めたことを。

(気付いていなければいいが…)

 どうかしていた。
 あんな風に人の肌に触れるなんて。
 でも、想いを交わし合った今、ただ傍にいるだけでは足りなくて。

(一番近くで君を感じてみたい。誰も知らない君を、見てみたい。そう思うのは、…間違っているんだろうか…)

 まだ高校生なのに。
 そんな衝動を抱くのがひどく後ろめたくて。



「よし、じゃあ行こうか」

 気付けば王崎がにっこりと笑っていた。
 心配そうに自分を見つめる香穂子と目が合った。

「大丈夫、月森くん?」

「…ああ、大丈夫だ」

 まだ少し動揺の残る様子ではあったが、切り替えの早さというか鍛えられた集中力のおかげなのか、先ほどまでとは全く違う表情に瞬時に切り替えられるその能力を、香穂子は本気で羨ましいと思う。

「僕も少し出られそうだから、調弦が終わり次第参加させてもらうね」

「はい」

 行ってらっしゃい、と送り出されたステージ。
 香穂子はこけることもなく、印のついた場所で各々が立ち止まる。学生だからさほどうまくはないのだろうという疑念からか拍手が少ないのはいつものことだ。
 目を合わせられるだろうか。
 そうして、切り替えた集中力が途切れてはしまわないだろうか。

(できる。大丈夫だ。…ゆっくり数えて…一)

 白い手首。

(…二)

 驚きに見開かれた瞳。

(…三)

 月森くん、と笑う顔。

(……よし)

 全員が月森を見ていた。心配そうな香穂子たちに頷いた。
 少しぎこちなくはあったけれど、ヴァイオリンを構えれば、もうそこには一人のヴァイオリニスト。
 香穂子の瞳をきっちりと見つめて。

(…いくぞ)

 足でカウントを取る。
 さっと緊張に包まれた雰囲気にどっぷりと身を浸す。
 ゆっくりと、弓を、

 引いた。





 誰にでもわかる楽曲を、というリクエストが多いから、ある程度演奏する曲は決まってくる。
 それでも、いつも手を抜かない。
 ひとつひとつの演奏を、きっちりとこなす。
 聞いてくれている人の心に、少しでも残るように。
 良い演奏だったねと、後で笑ってもらえるように。

 音を、楽しんでもらうために。

(少しずれている…香穂子だな)

 ほんの少しのズレ。気にならないと言えば気にならない程度だが、志水も冬海も気になるようで、チラチラと香穂子を見やる。
 香穂子本人も気づいてはいるのだろう、修正を試みようとしてもうまくいかない。逆にそればかりに気を取られて間違えることを恐れているようだった。

「…香穂子」

 そうっと囁く。
 こんなこと、いつだったかもあったな、などとどこか遠くで思う。

「次の四拍休みで修正してくれ」

「…ん」

 かすかに顎を引いたことで頷きと了承し、月森が香穂子の分もカバーして弾き始めた。
 志水も冬海も安心したように音色がほっとするのがわかる。

(まだまだだな…私)

 軽くへこむ。
 自分がいなければ、この三人だけで演奏すれば、もっといい音楽になっただろう。
 邪魔しているだけのような気がして。

(だめだ香穂子!それじゃあせっかく月森くんがカバーしてくれてるのが無駄になっちゃう)

 大丈夫。
 月森が視線でそう言っていると信じて。

 いち。

(…いい音楽に、してみせる…!)

 に。

 三人を見る。

 さん。

 月森が頷いた。

(…四!)

 自然に弓を下ろす。
 何も考えない。
 ただ今ある音の流れに、自分の音を乗せるように。

(うまく、いった…)

 ようやく、ひとつにはまった感じがしながら、月森も、志水も、冬海も、そして香穂子も、小さく頷いた。







「さっきはごめんね」

 控室に戻る途中で、香穂子が頭を下げた。

「でも、最後はとっても良かったです」

 音楽に関しては容赦のない志水が言うのだから、そうなのだろう。

「冬海ちゃんも、ありがとね」

「いえ!私は、そんな…何も…」

「次は最初からできるようにしておいてくれ。二人分をカバーするのは正直負担でしかない」

「うん、ごめんね月森くん」

 この後打ち上げがあるから一緒にどうかという誘いを断り、会場を出た。
 夏の風。
 日中は日差しが強いけれど、この時間なら過ごしやすい。
 駅に向かう後輩たちと別れて、公園へ向かう。

「風が涼しくなってきたねー」

「そうだな。もう秋の気配だな」

 アンサンブルが控えているからコンクールメンバーもヒマではない。定期テストの勉強もある。

「今日はごめんね」

 さあっと吹いた風に髪を押さえた。

「それと、ありがとう」

「…ああ」

 謝るより、ありがとうと言ってくれたほうがいい。

「こちらこそ。…いい勉強になった」

 色々と。
 などとは言わないでおく。
 次に香穂子が緊張してどうしようもなくなった時に、また思い出してしまうんだろうと思いながら。
 手を差し出した。

「帰ろう、香穂子」

「うん」

 きゅ、と月森の手を握り返した。





2012.6.24