| 震える指で服を脱がせる |
危ない、と聞こえた時には既に遅く。
「え、?」
ばっしゃーん、という物凄い水音と同時に自分がその水音の真っ只中にいるのだと気付くまでに、ほんの数秒を要した。
「大丈夫?!ごごごごごめんなさいっ!」
ぽたぽたと前髪から水が滴り落ちる。その先を見やると、制服もびっしょりと濡れていた。
「これ使っ・・・あああ雑巾だ!えーっとハンカチ・・・」
「何をしている」
バケツを手にハンカチを探している女子生徒を横目で見ながら、たまたま通りかかったのだろう月森が声をかけた。
「あ、月森くん」
「水をかぶったのか?」
「自分からかぶったわけじゃないよ。ここの曲がり角曲がった直後に水が・・・っくしゅ!」
未だにポケットを探っている女子生徒に「保健室からタオルを借りてきてくれないか」と言うと、月森も持っていたハンカチで香穂子の額を拭い始めた。
「い、いいよ月森くん!ハンカチ汚しちゃ・・・」
「そのためのハンカチだろう。君は気にするな」
「でも・・・っくしゅん!」
「何をしてるんだ、タオルを借りてきてくれ」
じっと二人の様子を見ていた女子生徒が我に返って走り出した。
「ここにいては風邪を引く。建物の中に入ろう」
少し冷たい月森の手。それが今は暖かくも感じられた。
「ごめんね、誰もいないだろうと思ってバケツの水捨てようとして・・・」
「もういい。君は掃除当番の途中なんだろう?後は俺がやっておく」
「でも」
「もういいと言っている」
にべもなく言い切られた女子生徒が香穂子に向かって「ホントにごめんね」と再度頭を下げた。クリーニング代は払うからと言われたけれど、断った。悪意があってやったわけじゃないのだからと香穂子が笑えば、月森が小さく嘆息した。
「とにかく着替えなければならないな。・・・体操着は?」
「教室のロッカーに入ってる・・・」
教室まで行けるか?と問えばこくんと頷く。付き合うと言う月森に押し切られて、無言で教室に向かう。
「そういえば、なんで月森くんはあそこにいたの?」
「・・・君には関係のないことだ」
その台詞、久々に聞いたなあなどと呑気に笑う。低俗な嫌がらせのことなど、彼女が知る必要はない。
「寒いのか?」
「そりゃあ、この季節に水かぶったらねえ・・・っくしゅん!」
くしゃみをする回数が次第に増えてきたようだ。急いで着替えたほうがいいだろう。
まだ日中は暖かいとはいえ、初夏とはまだいえないこの時期に頭から水をかぶったのだ。更にはタオルを持ってくるように言われた普通科の女子生徒がなかなか戻ってこなかったおかげで、香穂子の体温がかなり奪われていた。
「さむい・・・」
「急いで着替えたほうがいい。俺は廊下にいるから」
ロッカーから体操着を取り出すのを確認した月森が香穂子に背を向けた。うん、と聞こえた気がしてそのままドアを閉める。着替え終わったら声をかけてくれと言い残して。
「・・・遅いな」
もう10分近く経過している。濡れた服を着替えるのに手間取るとはいっても時間がかかりすぎではないだろうか。
香穂子を待つ間、音楽科の生徒・・・しかもつい先日終わった学内コンクールの入賞者だ・・・が腕を組んで突っ立っているのを不躾な視線が容赦なく降り注
ぐ。何人かの生徒が教室に入ろうとするのを、理由を言って下がらせる為もあって、月森は嫌々ながらその視線に耐えなければならなかった。
「香穂子?」
声をかけると「・・・うん」と返ってきた。入っていいかと問うと、数秒、迷うような沈黙の後に「うん」と返ってきた。
「失礼する」
がらりと開けると、まだそこには濡れた制服のままの香穂子がいた。
「どうして着替えないんだ・・・!」
「着替えた、いんだけど・・・」
最早唇が青紫になって、体ががたがたと震えている。着替えられないのなら早く声をかけろと苛立たしげに吐き捨てた。
「指が、震えて・・・うま、く、脱げなくて」
リボンタイを脱ぐところまではできたが、そこから先ができないのだと。
舌打ちしたい気分を抑えて香穂子を座らせた。
「立ったままでは、誰かに見られた時に咄嗟に隠れづらい。君は座って、このタオルを頭から被っていてくれ」
大判のバスタオルを頭から被せる。これで誰か入ってきてもすぐに隠せるだろう。
「ボタンを外すところまでは手伝うから。脱ぐのは自分でやってくれ」
バスタオルをかぶった頭がこくんと頷いた。そう言ったはいいものの、女性の服を脱がせるなどしたころがあるわけもなく、自分が何を言ったのか冷静になってしまうと、顔が赤くなるのを止められなかった。
「・・・失礼する」
しかしこのままでは香穂子が風邪をひいてしまう。意を決して、手を伸ばした。・・・微かに手が震えている。おうしてだろうと考える必要もない。・・・恋人の服を、着替える為とはいえ自分が脱がせるのだ。緊張しないわけがないだろう。
けれどもそんな緊張を隠し通し、どこから手をつけていいのかわからなかったので、香穂子から場所を教えてもらいながら、ファスナーを上げ、ボタンを外した。
「それじゃあ、また明日」
気をつけてねといつもなら言うはずの言葉がなくて、振り返ってみると、香穂子が顔を真っ赤にして俯いていた。
「どうした?熱が出てきたのか?」
「う、ううん。そうじゃなくて・・・あの、月森くんに、・・・着替えさせてもらったんだな、って思ったら・・・」
恥ずかしくて。
寒さの為に手が動かない香穂子。自分だって緊張して手が震えていた。
「気にするな、と言いたいが・・・すまなかった」
「謝ることないよ!私のほうこそ、ごめん」
「なぜ君が謝るんだ」
「だって、月森くん・・・呆れたでしょ?」
何度も何度もため息をついていたから。
そう言われるまで自分がため息をついていたことにすら気付かなかった。
「呆れたわけじゃない。・・・その」
少し俯くと、前髪で端正な顔立ちが隠れてしまった。
「その・・・緊張していたようだ」
「緊張?」
ああ、と月森が頷く。
「付き合っている女性の服を脱がせるということに、その・・・」
言いよどんだ月森の言葉が最後まで紡がれる前に察してしまった香穂子もまた、顔を真っ赤にして俯いた。
「き、気にしてないから!私なら大丈夫!だから月森くんも気にしないで、ね?」
取り繕うように香穂子があわあわと両手を振る。その様子に、いつもの調子が戻ってきたようだとわかれば、月森も普段通りに振舞える。
「それじゃ」
今度こそ「気をつけてね」という言葉を聞きながら、月森が背を向けた。
2011.1.25UP