これで何度目だろう。
 数え切れない。
 記憶の中の彼は、いつも微笑んでいる。
 でも時々掠れて見えない。
 穏やかに自分を呼ぶその声も。
 もう小さくなっている。

(足りないよ)

 忘れてしまいそうだ。
 あんなに憧れたあの人を。
 あんなに好きだったあの人を。

 想いだけが残る、無残な恋になりそうで。




違う温もり

 




 その日は朝から雨だった。
 ヴァイオリンには大敵の湿気に、今日はきっといい音が出ないだろうなと香穂子は一つため息をついた。
 いつも通りに家を出る。
 そして、大学の門をくぐった。

「香穂さん、おはよう!」

 後ろから聞き慣れた声が聞こえる。

「加地くん、おはよ」

「今日もかわいいね、香穂さん」

 手をとってその甲に口付ける。ありがとうと乾いた笑いを浮かべる光景は、大学の誰もが見慣れてしまった光景だった。

「ねえ、香穂さん。今日は駅前のカフェに行ってみない?」

 意外にも甘いもの好きな加地と、時々「スイーツ巡り」をする。
 香穂子の元気がない時に誘われる事を、香穂子は薄々気付いていた。

(気を使わせちゃったな)

 そうだねと返しながら、香穂子は加地に申し訳なく思う。
 こうやって周りの友人たちに支えられて、香穂子はこの想いを諦めずにいられる。
 忘れちゃえばと冗談交じりのように言う人もいるけれど、簡単に忘れられる想いではないことを、二人を取り巻く友人たちは熟知していた。

「たまには皆も誘ってみようか」

 ホントは二人だけがいいんだけどと舌を出して加地が笑った。





 珍しく、土浦、天羽、冬海、志水の都合がついて、久々に大人数でのお茶会となった。
 火原はどうしても抜けられない講義があるとのことで、「また誘ってね!」と大きく手を振りながら・・・かなり残念そうに・・・手を振って送り出してくれた。
 午後になっても降り続ける雨のおかげで、せっかくオ−プンテラスではなく、窓際の席を陣取る。
 土浦と加地がガタガタとテーブルをくっつけて、

「ほれ、日野」

「はい、香穂さん」

 ここに座れと中央の席を二人同時に指差した。
 一瞬目を丸くした香穂子がプッと吹き出す。すかさず天羽が突っ込んだ。

「相変わらずお姫様だね、香穂」

「今更だよ、天羽さん。香穂さんは僕のプリンセ・・・」

「あーはいはいはいはい!」

 土浦が加地にヘッドロックをかましながら遮る。痛い痛いと笑う加地と土浦は、なんだかんだ言いつつ仲がいい。

(足りない)

 心のどこかで、何かが叫ぶ。

(大勢でいても、足りない。・・・あの人が、足りない)

 こんな時は、きっと一人輪の中から外れて、我関せずとでも言わんばかりに腕組みをしていただろう。

「香穂先輩?」

 志水がそっと腕に触れた。

「顔色が悪いです。具合、悪いんですか?」

 そっと、でも有無を言わさない手が香穂子の背中に回り、椅子に座るように促す。
 出会った頃はそんなに変わらなかった身長差も、今ではだいぶ開いている。力もそれだけついたようで、香穂子はその力強さに内心驚いた。
 ありがとうと志水を見ると、他の面々も心配そうに見ていることに気がついた。

「さっ、何食べよっか!」

 彼女のなけなしの空元気だと、誰もが見抜いていても、何も言えなかった。





 じゃあねと駅前で別れて、土浦と歩き出す。
 帰る方向が同じだからなのだが、香穂子はなんとなく一人でいたかった。

「なあ、日野」

「なあに、土浦くん?」

「・・・いや」

 帰るか、とぽんと香穂子の頭を撫でた。

(あの人じゃない)

 手を取った加地の手の温もり。
 優しく、けれど確かな力と共に添えられた志水の手の暖かさ。
 何も言わずにただ黙っていてくれる土浦の掌の温度。

 どれも自分を思いやってくれるものだとわかっていても、この熱じゃない、と考えてしまう。
 冷たい指先。
 けれどその内側にある大きな熱を秘めたその手。
 する、と頬を滑る掌の感触。

(もう、忘れそうだよ)

 惨めな恋にしたくない。
 だから香穂子は必死で手繰り寄せる。
 思い出の欠片と。
 月森が好きだという、その気持ちを。







2010.2.16UP