たった数センチの距離なのに。
二人を隔てる壁は、厚い。
| ガラス越し |
「・・・それじゃあ」
行ってくる、と。
それまで二人の間を我が物顔で居座っていた沈黙が、最終搭乗のアナウンスによって破られた。
「・・・うん」
笑顔で送り出そう。
そう決めていたはずなのに、香穂子は今にも泣き出しそうな表情で月森を見つめている。
そんな香穂子を見て、月森の心は酷く痛んだ。
「泣くな」
「泣いてない!」
「・・・そうだな」
「泣かない、んだから・・・」
言った傍から涙が零れ落ちそうになっている。それでも泣かないと言い張る香穂子の気持ちを、月森は正確に汲み取った。
頬に手を滑らせて、親指で唇をなぞる。
きゅっと唇を引き結び、上を・・・月森を見ることで、涙をこぼすまいと努力している香穂子に、自分ができることは何かないだろうかと少しの間思案して。
「!!」
目元にそっと口付けた。
「好きだよ、香穂子」
「私も、・・・好きだよ。月森くん」
表面張力の限界を超えて、涙が一筋零れ落ちた。
その手が離れれば。
次に触れられるのはいつなんだろう。
もしかしたら、もうその暖かさを感じることはないのかもしれない。
もう、会うことは。
ないのかもしれない。
掌が離れて。
指先が名残惜しいと言わんばかりにその頬に留まり。
涙の跡を追う。
しかしそれは揺るがない決意と共に離れた。
しばらくお互い見つめあっていたが、先に視線を逸らしたのは月森だった。
無言で。
背を向けた。
「行ってらっしゃい」
小さく呟いたはずなのに、月森は背を向けたまま片手を上げた。
その姿が、搭乗ゲートをくぐる。
赤外線検査を受けて、荷物を受け取る。
歩き出す。
月森の姿を最後の一瞬まで見落としたくなくて、人を掻き分けて追いかける。
その先には、大きなガラス。
隔てた先には、月森がいる。
エスカレーターに乗ろうとした月森がふと顔を上げた。
ガラス越しに香穂子を認めて、一瞬大きく目を見開いた。
踏み出そうとしていた足を戻し、香穂子の元へゆっくりと近づく。
「香穂子」
「月森くん」
冷たいガラス越しに重ねられた手は、もうお互いの熱を分け合うことはない。
たった一枚のガラスが、二人の距離を遠いものにする。
「好きだ」
口元がそう、はっきりと動いた。
泣かないと決めた心はいとも簡単に壊れて消えた。
手を離す。
涙で歪む視界の中で、月森が再度背を向けた。
エスカレーターに乗ってしまえば、到着した時には香穂子の姿は見えない。
その一歩が踏み出せない。
後から後から、立ち止まる月森に訝しげな表情で人々が追い越していく。
ここで留めてはいけない。
自分から告げなくては。
香穂子は迷わなかった。
「行ってらっしゃい」
小さく、けれど確かに、手を振った。
ひらひらと小さく揺れるそれに、月森はどこか安堵したように微笑む。
目を閉じて。
またその涼やかな目が開かれたとき。
(私はいない)
そうして、月森が目を開けて香穂子のいた場所を見る。
そこにいたはずの愛しい恋人は。
姿を消していた。
エスカレーターに乗る。
月森もまた。
今度こそ迷わなかった。
2010.2.15UP