割り切れない想い

 




 月森がウィーンへ発って、3度目の春を迎えた。
 その間、一度も連絡を取っていない。
 たった一度だけ、月森の母親に会った。大学に入って間もない頃に土浦からリサイタルに行こうと誘われて、どうせだからと加地と冬海、志水を誘ったのだった。後輩二人は受験のドタバタに忙殺されて行けなかったけれど。
 リサイタルの後、ホールで美沙のマネージャーから声をかけられて、控え室に通された。
 土浦と加地がいる手前、思い切って月森のことを尋ねることもできなかった香穂子に、気を利かせたのは加地だった。
 元気にしていること。
 言葉の問題が多少残ることもあり、大学の講義についていくのに必死だと苦笑いしていたこと。
 厳しい教授が受け持ちで、課題をこなすのに忙しくしていること。
 友人たちは元気ですかと聞かれたこと。

「月森がそんなこと聞くのか・・・、あ、っと・・・」

 思わず呟いた土浦が慌てて口を閉ざすが、美沙は笑って「いいのよ」と受け流した。

「皆さんには本当に良くしてもらったわ。あの子の音が変わったのも、あなた方のおかげだもの。本当に感謝してるのよ」

 ありがとう、と美沙が笑った。



 それからは、月森がコンクールで入賞する度に大学では話題になっていた。
 高校から持ち上がりの友人たちは、香穂子の前ではあえて月森の話題を出さなかった。
 月森の名前が出るたびに、辛そうな表情を見るのが忍びなかったから。
 そんな気遣いを知っていた香穂子は、元気なフリをする。
 駅前のカフェに行こうだとか、ウィンドウショッピングに行こうだとか。
 何でもないフリをする。






「ねえ、香穂」

 高校の学内コンクールで異例の普通科からの出場者として取材させてほしいと追い掛け回し、気がつけば気の合う友人として「親友」の席を獲得していた天羽が、オープンカフェでアイスコーヒーの氷を突付きながら香穂子を呼んだ。
 天羽は学部が違うが、香穂子や土浦と同じ星奏の大学に進んでいる。時間が合えばこうしてお茶を飲んだり遊びに行くのが、香穂子の楽しみのひとつだ。

「なに?」

 新作ケーキをフォークで突き崩す。

「告られたんだって?」

 香穂子が一瞬固まり「・・・どこから聞いたの、それ」と唸るような声を発した。
 天羽と香穂子の間で、冬海が・・・彼女と志水も星奏に進んでいる・・・二人の顔を交互に見ている。

「報道部のネットワークをナメちゃいかんよ、日野くん」

 にやっと天羽が笑う。
 告白されたのは事実だ。けれどたった数時間前のことを、何故彼女が知っているのか。

「ニュースソースは秘密だけど」

「・・・断ったよ」

「何で?結構イケメンだったんでしょ?」

 性格も悪くないみたいだし、というその情報はどこからもたらされるのか。
 一度本気で問い質してみようと香穂子は思った。

「やっぱりまだ忘れられないわけ?」

「・・・・・・」

 何の約束もせずに旅立った月森を、香穂子が未だに忘れられずにいることを、二人と交友のある人間は心配している。
 そのうち香穂子が壊れてしまいそうで。
 時々、香穂子のヴァイオリンから紡ぎ出される音色が、儚く、壊れそうなほど脆い感情を乗せていることに気付いていた。
 けれど「そんなことないよ?」の一言で一蹴されていたのだ。ずっと。

「もう忘れちゃいなよ」

 穏やかに、けれどどこか怒りの感情を込めて、天羽が言った。

「連絡の一つや二つ、いくら忙しくたってできるでしょ?時差が何よ。そんなこと言い訳にして疎遠になるほどの関係だったわけ?」

「菜美先輩、それじゃ応援してるみたいです・・・」

 恐る恐る突っ込んだ冬海に「そうよ応援してるのよ!」と返した。

「素人の私でさえ、二人でヴァイオリン弾いてる時の音は違うって思ってたよ。楽しそうで、幸せそうで。それが何よ。今なんかこの世の終わりみたいな地面に這いつくばった音になっちゃってさ!」

「菜美先輩」

「皆気を使って、あんたの前では月森くんの話をしないようにしてた。あんたが辛そうな顔するの見たくないから。そのうち割り切るだろうって思ってた。なのに・・・」

「・・・よ」

 香穂子が何かを呟いた。聞き取れずに天羽が「え?」と聞き返す。

「割り切れるわけないよ!」

 バン、と叩かれたテーブルの音に周囲の客が何事かと注目する。冬海が反射的に「すみません」と頭を下げた。



「割り切れるわけ、ない」

「香穂・・・」

 最初に出会った、澄み渡るようなヴァイオリンの音色を生み出していた青年。
 技巧に優れた曲を得意とするが、実は穏やかな曲調のものを好む人。
 知識も技術もなさすぎる香穂子に、全力で指導し、知識を分け与えてくれた。
 冷たい表情の下には、傷つくことを恐れて臆病に震えている、優しさに満ちた人。
 穏やかに自分を呼ぶ声。
 琥珀色の瞳。
 男の人らしい綺麗で節くれだった、けれどヴァイオリニストとしての指を持つ、香穂子の、
 恋人だった人。



「割り切れるわけ、ないよ・・・」

 その呟きを最後に、沈黙が下りた。
 そうして、どれくらい経ったのかわからなくなった頃。
 冬海が口を開いた。

「香穂先輩」

 香穂子は俯いたまま動かない。けれど冬海は構わず話しかけた。

「諦めなくて、いいと思います。香穂先輩は、月森先輩を好きでいていいんです」

「冬海ちゃん・・・」

 弾かれたように香穂子が顔を上げた。冬海は、穏やかに笑っていた。

「香穂先輩が月森先輩を好きでいる限り、いつかきっと、また会えます。今度会えた時に本当のお二人の未来が始まるんです。だから」

 ずっと好きでいていいんです。
 冬海の言葉に、香穂子はしばらくの間何かを考えているようだった。
 天羽は何も言わない。それは彼女なりの賛成の意。
 香穂子は、ぎこちない笑みで答えた。

「ありがとう、菜美。冬海ちゃん。私、・・・割り切らない」

 割り切れない、ではなく、割り切らない、と告げた香穂子の決意を、二人は垣間見た気がした。



「よーし、じゃあ仕切りなおしてケーキもう一ついきますか!」

「はいっ、先輩!」

 すみませーん、と元気にスタッフを呼ぶ天羽と冬海に、香穂子は小さく「ありがとう」と呟いた。
 二人には聞こえていたけれど、天羽は聞こえなかったフリで「メニュー下さーい」と叫び、冬海はそんな天羽の照れ隠しを微笑んで見守っていた。



 ありがとう、二人とも。
 私、割り切らない。
 どんなに長くかかっても、いつか月森くんに会えるまで。
 ずっと想い続ける。



 香穂子の決意は、新しくオーダーされたケーキと共に体の中へ溶けていった。







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