何事にも好調不調はある。
信じられないほどに物事が上手く進む時もあるし、その逆も然り。
今は。
絶、不調。
| 君の優しさに癒されて |
「だから、ここでクレッシェンドしたほうが後が盛り上がるでしょ!」
「同じクレッシェンドならもう少し粘って、ギリギリこの辺でいったほうが・・・」
「いやそうすると今までの部分が意味なくなるから・・・」
堂々巡りの議論がもう30分ほど続いている。
コンサートで演奏曲を何にするか決まったものの、細かい解釈の打ち合わせが長引き、時間が押している。
次はスタジオに行かなければならない為、途中で中座しなければならなくなる。
しかしそうすると、曲の解釈がわからなくなるから、こちらとしても練習に入るのがそれだけ遅れてしまう。
「月森さんはどう思います?」
「え?」
自分の世界に入り込んでしまっていた俺は、その堂々巡りの議論を耳から耳へ流してしまっていたようだった。
「え、じゃないですよ!月森さんのリサイタルなんですからね!」
しっかりして下さい、というはっきりした物言いをするスタッフに、他のスタッフが「言いすぎだ」と嗜める。
「いや、考え事をしていた俺が悪かった」
「・・・すみません、嫌な言い方をして」
「君が謝ることじゃないだろう。事実なのだから。この後スタジオに入るから、できればその堂々巡りになっている議論に収拾をつけてほしいと考えていた」
「・・・・・・」
一瞬の沈黙。それだけ長いこと同じ議論してたら、そりゃそうだよなと誰かがぽつりと言った。
「俺の解釈、だったな」
「あ、はい!」
「俺としては・・・」
自分でこれがいいと思えるものを作り上げて行くには、たくさんの人たちの協力が必要になる。
プロのソリストだから、自分が良ければいいというものではない。
協調、中和。いい意味での妥協。
そういったことを模索して、ベストと思える道を選んで行く。
そうして完成した曲は、素晴らしい出来映えになることを、ここにいる全員が知っている。
だから衝突は日常茶飯事。
しかしそれをまとめていくのも自分だから、時々疲労が溜まる。
人知れず、小さくため息をついた。
スタジオでも打ち合わせ。
練習してから帰宅すると、もう時計の針は翌日を示そうかという頃だった。
先に休んでくれと連絡したから、彼女はもう寝ているだろう。
鍵の開く音で起こさないように、ゆっくり。
そっと開けると、リビングの明かりが点いていた。
「・・・香穂子?」
「あ、お帰りなさい」
リビングから続くキッチンに、彼女はいた。
「そろそろ帰ってくるかなーと思って」
お茶の準備をしてたのだと。
手を洗って戻ってくると、カフェオレが湯気を立てていた。
「疲れてるだろうから、ミルク多目にしたからね」
「ああ、ありがとう」
ただ黙って過ごす時間。香穂子がいるだけで、一日で感じていた疲れも吹き飛ぶようだった。
香穂子は、基本的に仕事のことを聞いてこない。
家にいるときぐらいは忘れてほしいから、と言った彼女の優しさに、俺は何度も助けられた。
今日は一日何をしていたかとか。
どんなことを考えていたか、彼女の話を聞いているほうがずっと心が安らぐ。
「・・・蓮」
「ん?」
香穂子を見ると、穏やかに微笑んでいた。
「今日も一日、お疲れ様」
君が俺の傍にいてくれる。
隣で微笑んでいてくれる。
深い愛情と優しさで俺を包んでくれるから。
それだけでいい。
君の優しさに癒されて、俺はまた頑張れる。
だから、精一杯の感謝を。
「ありがとう、香穂子」
2010.2.8