| 後ろから抱きしめられるのが好き |
「だからなぜそこで引っかかるんだ」
「うう〜」
「もう一度」
「・・・はい」
ヴァイオリンを構えて、弓を下ろす。
「指に力を入れないで・・・滑るように。・・・そうだ。次に気をつけ」
て、と言いかけたところでまた引っかかる。
今まで順調にテンポよく歩いていたのに、後ろから思いっきり引っ張られるような。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人同時に盛大なため息が漏れた。
「君はなぜそこで引っかかるんだと思う?」
腕を組み、窓際に寄りかかっている月森が言った。
何度繰り返しても直らないのは自分の指導ではどうしようもできないと判断したのだろう。
「指とボウイングが合ってないから・・・」
「それは俺が何度も言った。それでも直らないのは、君自身に何か理由があるんじゃないのか?」
元来負けず嫌いの香穂子は、今まで月森が出す「宿題」にもきっちりとこなしていた。なのに。
「・・・わかんない」
「わからない、とは?」
ヴァイオリンを下ろして月森を見、その視線が足元に向けられた。
「できないのも、理由も。・・・わかんないよ」
煮詰まってしまったようだった。
月森もこういった気持ちがわからないでもない。巧くなりたいと思えば思うほど、今の自分の技術が追いつかないジレンマ。弾いても弾いても、良くなるどころか悪くなっていくんじゃないかという不安。
「少し休憩しようか」
出窓をからりと開ける。肌寒い秋の風が澱んだ空気をかき出していく。
ピアノの上にヴァイオリンを置いて、香穂子が窓辺に立った。
「なんでできないのかなあ・・・」
「後で俺も一緒に弾いてみよう」
「うん・・・」
この曲をやりたいと言い出したのは香穂子だ。
少し難しいのではないかと月森が言うのを、無理に押し通したから途中でやめることもできない。・・・そんな気はさらさらないが。
「香穂子」
物静かなトーン。月森の声は、聞いていて安心できる。言っていることは容赦がなかったりするけれど。
「君の気持ちはわからないでもない。俺にもそういった時期があった。巧くなろうと意識しすぎると逆効果だ。だから巧く弾こうと思わずに、君らしく、楽しんで弾くといい」
「私、らしく」
「ああ」
目から鱗という顔で香穂子が月森を見ると、少し解決したなと微笑む。
「私、月森くんの音を追いかけてばっかりで、私らしく弾こうって気持ちがなくなってたよ」
「そうか」
「今すっごく弾きたい!」
くるっと回れ右をしてヴァイオリンを取りに行こうとする香穂子を、月森が呼び止めた。
「香穂子」
「えっ?」
振り向こうとしたが叶わなかった。
月森が背後から抱きしめたからだ。
ふわ、と彼の香りがする。
「君が、好きだよ」
「・・・どうしたの?」
「言いたくなったんだ。・・・好きだよ」
小さく耳元で囁かれる言葉に、香穂子はうっとりと目を閉じた。
「私も。月森くんが好きだよ」
手を取って、甲に口付けた。お返しとばかりに髪にキスを落とされる。
普段後ろから抱きしめられることがないだけにドキドキもするが、何よりも安心できるから香穂子は好きだ。
そう言うと、「そうか」とだけ返ってきた。右手を外したから、口元に当てているのだろう。
「照れてる?」
「・・・・・・」
嘘でも否定すればいいのに、正直な彼はこんなことにも正直だ。
「あはは、月森くんかわいいね」
「男に言う台詞ではないと思うのだが」
「うん。でもかわいい」
ぐ、と力が入る。苦しいけれど、より一層月森が近くに感じられる。
「好きだよ、月森くんが」
「・・・・・・」
脱力して頭を香穂子の肩に乗せる。ぽんぽんと撫でて「練習始めよう!」とするりと抜け出した。
ひとつため息をついて、月森が顔を上げた。苦笑いを浮かべて。
「君には、かなわない」
後で逃げられる前の続きをしてもらおうと小さく決心して、月森はヴァイオリンを取り出した。
2010.3.2UP