| ずっといっしょだよ |
夕方になれば寒くなる秋の入り口でも、日中は日が差せば暑いほどだ。
アンサンブルのことで頭を悩ませつつもヴァイオリンの練習を怠るわけにはいかないから、香穂子は今日もまたヴァイオリンを手に月森家を訪れていた。
月森の指導はいつもいつも自分のレベルの上を行く。けれども遥か高いものではなく、背伸びをして届かないけれどジャンプすれば届く、そんな感じだ。
一度にたくさんのことを注意するのは、それで変な癖がついてしまわないようにという配慮からだと理解しているから、懸命にメモを取り、頭に叩き込む。一つでも忘れてしまうと即座に「待て」とストップがかかる。
「先ほども言っただろう」
もう忘れたのかと言わんばかりの溜め息と視線。メモには「指がブレないように」「ヴィヴラートをしっかり意識する」と書いてある。
「短くてもここのヴィヴラートは大切なポイントだ。次を意識しすぎて指がブレると音を外す」
「はいっ」
そして間違えた所よりも数小節前からまたやり直し。
また引っ掛かってはやり直し。
けれども「次」を意識しすぎてうまくいかない。
「少し休憩しよう」
香穂子の表情にも焦りと苛立ちが見え始めている。このまま続けても意味はないと見切って月森がヴァイオリンを下ろした。
天気がいいからテラスに出ようかと誘ったのは月森。
祖母が趣味でやっているガーデニングの、コスモスが風にふわふわと揺れている。それを見ながら、お手伝いさんが用意してくれていったサンドイッチと紅茶の乗ったトレイを置いて、コスモスの香りを楽しむ。秋らしいピンク色の花たちが誇らしげに咲いているのを見ているだけで、ささくれだった気持ちが凪いでいくようだ。
「クラシックって、よくヒーリングとか言われて胎教にもいいとか言うけど、それを演奏する人はこんなに必死になってるって、ちょっとおかしいね」
「癒しだとか言うのは後からついてきたものだ。あくまで作曲者の意図は一つの物事に対して音楽で表現しているに過ぎない」
言われてみれば確かにそうなのだろう。しかし、いつの時代も演奏することに対してたくさんの苦労や涙があったはずだろうと思う。
そうやってたくさんの人たちが表現してきたのだろう。
「表現するって、いつの時代も難しいことなんだね」
ぽつりと呟いた。
簡単ではない。目に見えるものではないのだから。
けれど簡単ではないからこそ挑むのだ。自分が持ち得る全ての力を出し切って、何かを「表現」しようとする。
「私も、できてるといいな。いいなっていうより『やらなきゃ』なんだけどねー」
あははと笑いながら椅子に座る。少し冷めてしまった紅茶を一口含んでサンドイッチを頬張った。
香穂子が来る時はいつも用意してくれている昼食。サンドイッチであったり、レンジで温めるだけの簡単なものだったり。申し訳ないから自分で作ってくると言ったこともあるのだが、過保護なほどに指の心配をする月森から猛反対されて結局今も甘えてしまっている。もっとも、用意している本人が楽しんで作っていますからと言われてしまえば香穂子も強くは言えず。
「あー、おいしー!私が作るとツナとマヨネーズとか、レタスとトマトとベーコンとか、そんなやつだけど。このクリームチーズのはおいしい!」
「後で言っておく」
作り方教えて欲しいなと言ってみたいのだが、指の心配をされるから黙っておく。それに気づいたのだろう、月森が苦笑を漏らした。
「この程度なら大丈夫だろう。作り方を教えて欲しいと伝えておこう」
「いいの?!やったあ!」
なおのこと嬉しそうに口を開ける香穂子に。
(言うのはまだ先だろうな…)
月森が気づかれないように息を小さく吐き出した。
月森が最近遠くを見るような視線で考え事をするようになったことには、気付いていた。
呼びかけると「ああ…すまない」とすぐに微笑みかけてくれるけれど、何を考えていたのか聞いても「何でもない」と答えるばかり。
必要がないことは話してくれる人ではないから、香穂子はそのまま黙っているのだけれど。
(さっきも少し黙り込んでたな…)
ふっと遠くを見るような瞳。そのまま月森自身もどこか遠くに行ってしまいそうで、少し怖い。
可能性としては全くないわけではないことも、香穂子自身もわかっているつもりだ。月森はずっと日本にいていい人間ではない。世界に出て、世界の人々に月森の音楽を知ってもらうべき人だ。
でもそれは早くても高校を卒業してからだろう。一年と少し、まだ時間はある。
なのに。
(なんでこんなに不安になるんだろう…)
そして、どうしてこの気持ちを月森に言えないのだろう。
多分、怖いからだ。
留学するの?と問うて、頷かれるのが怖い。
離れ離れになってもなお、想い続けている自信がなくて、怖い。
(でもいつかはわかる)
きっと教えてくれる。
日本を離れるつもりがあることを、きっと、真っ先に。
(だから信じよう)
月森のことが好きだから。
信じている。
「お待たせ、月森く…」
洗い物を終えてテラスへと戻る。しかし、最後まで言えることなく、香穂子が立ち止まった。
「…月森くん?」
テラスの椅子に座って腕組みをしたまま、眠っているのだった。
少し眉間に皺を寄せて、難しい表情のままで。
首を傾げるようにして眠っている。
「……ねえ、月森くん」
眠っているのならば聞かれることはない。
それでも、怖い。
言葉にするのが、怖い。
「……私は、ずっと好きだよ。月森くんのこと、ずっと好きでいたい。だから…」
一緒にいたい。
身体は離れても、せめて心だけは。
ずっと、一緒だよ。
そう言えずに飲み込んだ言葉が重く口の中に残るのをどうにか咀嚼して無理矢理飲み込む。
さらさらと風に揺れる髪をそうっとかきあげてやると、月森が僅かに「ん…」と身じろぎした。起こしてしまったのかと手を引っ込めたが、また眠りについてしまったようだ。
月森の横にしゃがみこむ。未だにしかめっ面のままで眠る恋人は、自分に何を隠しているのだろう。
きっとそれは重大なものだろうとは予感していた。二人がずっとこのままでいられないかもしれないほどの、何か。
願わくば「それ」ができるだけ遅い日に訪れればいいと願う一方で、いずれは訪れるのならば早く言って欲しいとも思う。
不安だ。
月森が何を言いたいのかが半ばわかっているから。
でも知らないフリをするしかない。気付いてはならない。その時点できっと月森は自分を切り離す。
(嫌だよ)
遠く離れても想い続ける自信など、ない。
それでもただ残像を追うだけのみじめな恋で終わらせたくない。
相反する想いが香穂子の胸の内を揺さぶっていく。
(でも、…今だけ。今だけは)
月森がこうして傍にいてくれる間は。
全てではなくても、一部分でも、自分のものでいてくれる。
その間だけ。
「ずっと一緒にいてね」
飲み込めずにいた言葉を吐き出した。懇願にしたのは、少しでも月森の負担を軽くするため。
そんなことをしても結局叶えられることはないんだろうなと思いながら、香穂子は重いため息をついた。
ヒトリゴト。
甘々じゃない!お題から外れてるじゃないか!と苦情がきそうですが(汗
ずっと一緒だよ、と、ずっと一緒にいてね、の違いで私の中では甘々なのです。…多分この違いをわかってくれる人はいないんだと思います…ぐす。
2011.11.28UP