涙を舐める




 はいどうぞ、とコーヒーの入ったマグカップを手渡す。
 ありがとう、と読んでいた本から顔を上げると、月森が微笑んだ。

「さっきから随分熱心に読んでるけど、何読んでるの?」

「読んでいる、というより『眺めている』に近いんだが。君も見るか?」

 うんと頷いて隣に座る。膝の上で開かれたその本は、写真集のようなエッセイのような、詩集に近いものだった。

「詩集?」

「に分類されるんだろうな。写真が綺麗だから思わず手に取ってしまったんだが」

 因みに英語でもドイツ語でもなく。

「これ、何語?」

「スペイン語のようだ。俺はイタリア語とあまり区別がつけられないから、もしかしたらイタリア語かもしれない」

 隣り合う国だからなのか、よく似ている言語なのだ。月森を挟んでスペイン語とイタリア語で会話する友人がいたが、当時の月森には微妙な言い回しが違う、程度にしかわからなかった。今でも大差ないのだが。

「写真、綺麗だね」

 月森でわからないものは香穂子にもわからない。世界で難しい言語の一つとされているドイツ語に充分苦労しているのだ、他の言語を勉強できる余裕があるはずもない。

「そうだな」

 じっと眺めているその写真は、海の写真だった。
 雲一つない青空に、凪いだ海。
 空と海の境界線はどこにあるのだろうと探してしまうほど同じ色をしていた。
 太陽の光を反射して、海がキラキラと輝いている。

「大学入ってから、海なんて行ってないなあ」

 月森や香穂子が育った街は海を臨む所だから常に身近にある。けれど、泳ぎに行くだとか、海水に触れる機会はあまりなかった。

「月森くんがウィーンに留学してからは、私毎日ヴァイオリン漬けだったし。大学入ったら周りに追い付くのに必死で遊ぶどころじゃなかったし」

 それに。
 海を見ると思い出してしまうから。
 月森と何度となく行った海を。
 そこにいるはずのない存在を、温もりを。
 探してしまうから。

「香穂子」

 月森の手がそうっと重ねられた。
 少し冷たい、けれど、優しい手。

「…あはは、蓮が悪いんじゃないよ。誰も何も悪くないんだから」

 気遣わしげな視線に笑ってみせると「無理をするな」と囁かれた。

「君はそうして辛いことも飲み込もうとする。口に出さずに我慢してしまう。そんなことをさせるために俺がいるわけじゃないだろう?辛かったならそう言ってほしい。そうやって口に出してくれないほうが、俺も辛い」

 自分の音楽を極める為に発った地で。
 こうして暮らしている今、辛いことも楽しかったことも、これからの時間も。
 二人で分かち合っていきたいから。

「我慢するな、香穂子」

 つ、と涙が零れ落ちた。笑顔を取り繕おうとして頬が引き攣り、それがどれほどの辛さだったのかを思い知らされるようで、月森が抱きしめた。

「辛かったって、言わないよ。だって、辛くなんかなかった」

 嘘だ。
 会いたくて、声を聞きたくて。
 その温もりを探していた。
 でも香穂子は決して言わないでいようと思った。
 例え今流れる涙がそれを嘘だと証明していても。

「我慢なんてしてないよ。本当に辛くなんてなかったんだもの。毎日のように思い出すことはあったけど…でもね、蓮のこと考える度に、思ってたんだ。私、ヴァイオリン頑張ろうって。隣に並ぶまではいかなくても、手が届くくらいまで追い付きたくて。だから私、毎日必死だった。練習室が使える時間ギリギリまで毎日練習して、お休みの日は外で弾いたり、誰かと合わせてもらったり。菜美とか冬海ちゃんが見かねて息抜きに誘ってくれたりした時以外は、音楽に浸かってた。先生に言われるままコンクールとかも出たりして。いつもいいところまではいくけど、結局優勝とかできたわけじゃないんだけどね。でもコンクールに出たら、蓮に近づけるような気がして」

 あの時は「音を楽しむ」余裕なんてなかった。とにかく必死だった。
 コンクールに出れば、何かが月森に近づくような気がして、教授から勧められたコンクールに片っ端から出た時期もあった。入賞はしても、優勝することはない自分の実力に、何をやってるんだろうと気が付いたのは、4年になる少し前のこと。

「何かね、毎日必死にやってきた疲れっていうのかな、そういうのが出てきたんだと思う。蓮に追い付きたいって、ただそれだけで必死になってヴァイオリン弾いてたけど、根っこの『音を楽しむ』ってことを忘れてたんだと思う」

 言うなれば、香穂子に出会う前の自分だったわけだなと月森は思う。
 感情さえ計算しようとしていた表現。
 ヴァイオリンさえあれば他はいらないとさえ思っていた。
 音楽という、音を楽しむという言葉が全くわかっていなかった、あの頃の自分と。

「3年の終わりごろには、何か吹っ切れちゃって。ヴァイオリン始めてからプロになるつもりはないって言ってきたけど、本当に実感したっていうか。どんなに頑張っても、蓮が重ねてきた練習時間に追い付けるはずないんだもの。同じになろうとせずに、私は私で、ヴァイオリンを弾いていけばいいんだなって思ったんだ」

 そうしたら高校の頃、無邪気に弾いていた気分が蘇ってきて、ヴァイオリンが楽しいと思うようになったのだ。

「その矢先に、…蓮に会った」

 加地に誘われて行ったカフェで。
 信じられなかった。
 夢を見ているんじゃないかとさえ思ったのだ。

「夢じゃない」

 抱きしめていた腕に力を込める。うん、と腕の中で香穂子が頷いた。

「こうして蓮の暖かさにまた触れてる。ただいまって笑ってくれる。ヴァイオリンを、蓮の音を聴ける。…だから、それでいいの」

 見上げた香穂子の瞳からぽろぽろと流れる涙。
 今まで見たどの涙よりも、綺麗だと思う。

「…香穂子」

 額にかかる髪を耳にかけてやる。くすぐったそうに目を閉じたその隙に。

「…っ、…蓮」

 流れ落ちる涙を舌先で舐め取った。
 驚いて目を見開いた香穂子に微笑むと、静かに顔を寄せた。

「もう、君にこんな涙を流させたくない」

 こつんと額を寄せて、月森が囁いた。

「君がいつも笑っていられるように。君の笑顔を守りたい。傍にいてくれ。ずっと」

 ウィーンにいた間、こんな想いをさせていたのかと思い知ると同時に、もうあんな風に置いていかないと心に誓う。

「ずっと、いてくれ。…香穂子」

 祈るように。
 叫ぶように。
 囁かれた言葉に、香穂子がまた一粒の涙をこぼした。

「…うん」

 流れ落ちる涙を舐め取る月森に、小さく頷くと。

「ありがとう、香穂子」

 柔らかく微笑んだ月森の唇が香穂子のそれに重ねられた。









ヒトリゴト。
 甘々に、…なって、る?
 なんか切ない系モードが抜けきらないまま書いたので、ちょっとそんな感じです。でも所詮は私クオリティ(笑


2011.11.7UP