ぶかぶかのシャツ

 




 一人でいる間も結構忙しい。
 蓮はコンサートツアーでヨーロッパを回っている。短い休みはあるけれど自宅に帰れるほどでもない。それでスタッフが会社とツアー先を行ったり来たりしながら私との連絡係になってくれている。
 大体は「元気ですよ」というだけで、蓮本人からのメッセージとかはない。いつも何かありますかと聞いているけれど「ない」と即答するのだとマネージャーのロータスさんが苦笑いしていたっけ。

「えーと、あっとは~洗濯~ものっ」

 やっぱり今回もそれなりの洗濯物と一緒に「伝言はありませんでしたが、お元気そうですよ」という一言を届けるだけで帰って行ってしまったロータスさんを送り出して、ぱんっ、と手を打った。





 几帳面な性格は洗濯物を畳むときにも表れていて、洗うだけなのだから適当でもいいものを、ちゃんと丁寧にたたんで寄越す。パッキングのこともあるし理由 はわかるんだけど。長期出張とかで実家の父親が大量の荷物と一緒に帰ってくると、母親は「せめてもうちょっとマシにたたんで!」と文句を言っていたことを 思い出す。

「蓮はその点、合格」

 メッセージの一つくらいくれたって、と思うけれど、人づてに聞かされるのは私も恥ずかしい。だから淋しいと思いつつも仕方ないと思っている。

「あ、このシャツ…」

 誕生日に私からプレゼントしたやつ。
 淡いブルーに濃紺のストライプが入っていて、一目で気に入ったのだ。

「着ててくれてるんだ」

 ちょっと派手じゃないかと渋った顔をされたけれど、外出先で着てくれているのが嬉しくて、嬉しくて。
 丁寧に畳まれたそれをぱっと広げた。

(…あ、蓮の匂いがする)

 仕事をするようになってから、蓮はほんの少しだけ、フレグランスを付けるようになった。
 ヴァイオリンを弾く時は付けない。打ち合わせやヴァイオリンを弾かない日につける。
 爽やかな香りは私も気に入っていて、一緒に選んだ甲斐があったというものだ。

「…ふふ」

 いい香り。
 シャツに顔を埋めて大きく息を吸い込む。
 少し汗の混じった香りとフレグランスの消えかけた香り。
 ぶかぶかのシャツは私が強く抱き締めてもそれ以上香るわけじゃないのに。

「早く帰ってこないかな…」

 もう一か月経っている。時々ツアーや演奏先についていくこともあるけれど、今回は一緒に行かなかった。顔を見に行くこともしなかった。そういったこともあるから蓮は気にしていないだろうけれど。

「やっぱりさ、…淋しいよ…」

「それは悪かった」

「?!」

 聞きたいと願っていた声。
 空耳かな、でも物凄くクリアに聞こえた。
 まさかと思いながら振り返ると。

「蓮!」

「ただいま、香穂子」

 壁にもたれて腕を組み、少し呆れたように蓮が笑って立っていた。

「なっ、…え、ど、…な」

「そんなに驚かせてしまったのか?すまなかった、君がそこまでびっくりするとは思わなくて」

「なんで?どうして?なんで?」

 蓮が珍しく声を立てて笑った。私の動揺っぷりがおかしいんだろう。
 でもだって、それは驚かないわけがない。

「ロータスにも言わないでおいてくれと言っておいたから。君を驚かせようと思って」

 見事に成功だな。
 得意げに笑う蓮の目論見は確かに成功したんだろうけれど。

「夜には戻る。君の顔を見たかっただけなんだ」

「………そんなこと、…言われても」

「君に触れたいと、ずっと思っていた。…こうして、君の温かさを思い出しては触れられないことに寂しさを感じてしまって…。今度から長期で出かける時は、やっぱり君も連れて行く」

「…うん。私も、淋しかったよ」

 シャツに残った香りだけでは淋しすぎて。

「香穂子」

 消えそうな香りではない、蓮の。

「蓮の匂いがする…」

 ぎゅうっと抱き寄せられた腕の中で。
 私は幸福感に包まれながら目を閉じた。

「ここにいる。君の傍に」

「うん」

 蓮の長い指が私の前髪をそうっとかきあげる。額にキスを落として、囁く。

「君が俺のシャツに顔を埋めているのを見たら、……我慢できなくなった」

「えっ?」

 後頭部へと手が滑り。

「れ、……」

 待ち望んでいた彼の熱が伝わる。私も同じように応えながら、蓮の頬に手を添えた。


 薄い残り香を残したぶかぶかのシャツが、二人の間で乾いた音を立てて落ちた。





2012.2.22UP