| 目の上が熱くなって心のしずくが落ちてきそう |
「香穂、おはよう!」
真冬の寒さの中、天羽がそんなものを感じさせないほどのテンションで香穂子の元に駆け寄ってきた。
「天羽ちゃん、おはよう。朝から元気だねー」
「んっふふ〜・・・知りたい?」
「私はいいよ・・・」
天羽の顔には大きく「聞いて!」と書いてあるのだが、何となく予想できてしまうだけに聞かなくてもいいような気がする。
「まあそう言わず。おっ、冬海ちゃんも!おはよう!」
「あ・・・おはようございます。香穂先輩、天羽先輩」
「おはよ、冬海ちゃん」
後からやってきた冬海も巻き込んで、天羽はエントランスの端へと二人を引っ張った。
「じゃーん!」
カバンからがさごそと取り出したのは、一冊の雑誌。
「これ・・・」
「・・・・・・」
表紙を飾っているのは、この学校で最早知らぬものはいない、月森蓮。
今年の春に、遠くウィーンへ旅立った、恋人だった人。
月刊の音楽雑誌の表紙には、ヨーロッパのコンクールで優勝、と書いてある。
「軽くだけど、インタビューも載ってるんだよ。星奏のことも少し触れててね」
パラパラとそのページを二人に見せようとする天羽に、香穂子は「悪いんだけど・・・」と申し訳なさそうに切り出した。
「私、もう行かなくちゃ。ごめんね」
じゃあまた後で、と手を振りながら駆け出した。
「あっ、ちょっと香穂?!」
「香穂先輩・・・」
二人が引き止める声を振り切って、香穂子は教室へと急ぐ。
否。
「気付かれる、かな・・・」
隣の席には、香穂子のことに関しては嫌にカンのいい加地がいる。
今の状態で会ったら、何かあったと思われるに決まっている。
「どうしよう・・・」
天羽と冬海が見えなくなった所で足を止めた。
「よう」
そしてここにもう一人。
加地ほどではなくても、香穂子のことに関しては親身になってくれる男がいた。
「・・・土浦くん」
「どうした?顔色悪いぜ」
「何でもな・・・」
「何でもない、っていうカオに見えねえけどな」
「・・・・・・」
先手を打たれた。
土浦には言ってもいいだろうか。
一番仲が悪かったけれど、裏を返せば一番理解し合えているだろう月森のことを。
「・・・場所移すか」
「でも授業が」
「お前がそんな悲壮な顔してる時は月森絡みだろ。その状態で授業なんか受けたって頭に入らないぜ、どうせ」
図星。
来いよ、と先を歩く土浦の後をついて行きながら、香穂子は少し安堵していた。
見つかったのが土浦で良かったのかもしれない。
たどり着いたのは音楽準備室。
金澤は授業なのか、猫にエサをやりに行っているのか、カギを開けたまま不在にしていた。
「物騒だな金やん。カギくらい閉めとけよ」
しかし土浦はここが空いていることを既に知っていた。
それを素直に口にすると「ああ」と苦笑う。
「ここが空いてるかどうかは一か八かだったんだけどな。一時間目の授業、俺たちのクラスだから」
「え・・・」
「取られるものなんか何にもないって豪語してたが、ホントに空けっぱなしとはね」
教師としてどうなんだかと肩をすくめた。
「で?」
「え?」
勝手知ったる何とやらで、淹れてあったコーヒーをカップに注ぎ、砂糖とポーションミルクまで丁寧につけて、香穂子に手渡した。
「月森がどうかしたのか?」
直球。
突然尋ねられたせいもあり、自分の中でまだ整理できずに黙っていると「とにかく言ってみろよ。順番なんか気にすんな」と優しい声が響く。
金澤には申し訳ないが、砂糖とミルク両方を使わせてもらい、くるりとかき混ぜてから、ぽつぽつと話し始めた。
月森の記事を天羽に見せられたこと。
彼が旅立ってからできるだけ触れずにも、思い出そうともせずにいたこと。
それができずに今まで苦しかったこと。
誰にも言えずにいたこと。
「・・・成る程な」
話を聞き終えると、土浦が冷めかけたコーヒーをようやく口に含んだ。
「無理矢理吹っ切らなくてもいいんじゃないか?そうやって無理に忘れようとするから心が痛いんだろ。俺らが月森っていう人間を知ってる以上は、何かしら話
にはなるだろ、ただでさえ話題のある奴だし。それを完全にシャットアウトするのはできねえし、忘れるなんて、・・・できねえだろ。お前は、特に」
「・・・つちうらくん」
「クラスも違うから、俺は完全にお前を守れない。でもできるだけ力になりたいとは思う」
だから一人で溜め込むな。
小さく、ちいさく。
土浦が放った言葉を、香穂子は静かに聞き入れた。
「あいつのことなんか聞きたくもねえけど。でもお前は月森じゃなきゃダメなんだろ」
どこか含みのある言い方にも聞こえるが、今の香穂子にはそこまで言葉の裏を探れる状態ではない。
わかっているけれど、どこかで気付いて欲しいという気持ちもあって。
土浦はほんの少しの期待をしていたのだけれど。
「うん」
即答した香穂子に、土浦はやっぱりなと内心ため息をついた。
月森への想いが香穂子の中に少しでも残っている限り、自分のこの想いは知られないようにしようという決心とともに。
苦しいのは、こちらも同じなんだ。
「ありがとね、土浦くん」
瞳を少し潤ませて、精一杯の笑顔で笑いかけた。
だから無理をするなと言っているのに。
「・・・いや」
そうは言っても、この目の前にいる少女にはできないのだろう。
土浦の言ったことが、いつか。
わかってもらえたらいいのだが。
「今はしゃあないか」
頭をポリポリと掻く。
月森のことで涙を流すまいと決めているのだろう、張力を超えて零れ落ちそうな涙を必死にこらえている。
いっそのこと「つらい」と泣けば楽になるだろうものを。
なぜ香穂子は自分で辛い道を選び取るのか。
「なあ、日野。・・・辛いなら、言えよ。何もできないかもしれないが、聞いてやるから。お前がそうやって泣くの我慢してんの見るの、嫌なんだよ。俺だけ
じゃない、みんなだ」
だから泣きたい時には泣いていい。
あふれ出る心からの雫を、なかったことにはできないから。
そうして、少しずつ。
想いを消化していけばいい。
忘れるんじゃなく、落ち着かせるために。
だから。
「泣いていいんだぜ」
香穂子の表情が一瞬凍りついた。
くしゃっと顔を歪めて、・・・とうとう。
その「月森がいなくて辛い」という叫びの雫が、零れ落ちた。
「ごめ、・・・今、だけ・・・」
「ああ」
「ごめ・・・ね」
「いいから」
自分で言っておいて、成す術もなくただ黙って見ているしかできない非力さを。
土浦はこれほど呪ったことはない。
触れることもできず。
あいつのことなんか忘れちまえ、と喉まで出かかっている言葉を無理矢理飲み込んで。
いい友達、のポジションを失いたくなくて。
人のこと言えねえよな、と自嘲の笑みを漏らす。
今、自分にできる精一杯は。
ぽんぽん、と頭を撫でるだけ。
それでも傷ついた香穂子の心には充分すぎるほどの優しさだった。
暖かい掌の感触が月森のそれとは違うことにまた涙を零し。
今まで我慢してきた代償はそれなりに大きかったようだった。
香穂子が登校するのを見ていたけれど教室に来なかったせいで心配になって探しにきた加地と。
授業を終えて、授業を欠席した土浦に後でペナルティだなとほくそえんだ金澤が。
音楽準備室の前でばったり出くわし、中で泣いている香穂子を見つけて土浦を問い詰めるまで。
ただただ。
香穂子は泣き続けた。
2010.5.4UP