あなたの心に潤いや、安らぎ




 

 月森くんが、留学することが決まった。

 その事を天羽ちゃんによって知らされたのは、昨日のことだ。

 知りたくない気持ちもあったけど、本当なら・・・一緒に過ごせる時間は残り少ない。

 そのわずかな時間の中で、彼との思い出をたくさん作りたかった。


「・・・ああ」

 僅かに頷いた・・・ああ、本当なんだ。

 本当、なんだ。

 頭が真っ白になりかけたけど、ここでパニックになるわけにはいかない。

 精一杯の笑顔で「そっか」とだけ言うのがやっとだった。

「月森くんが出発するまで、できるだけ一緒にいようね」

「・・・ああ」

 微かに笑ったその表情は、悲しそうなものだった。


 月森くんがウィーンに留学する。

 事前に相談があってもいいじゃないのかと天羽ちゃんは憤っていたけれど、私は月森くんらしいなと納得していた。

 自分の夢が叶うチャンスなんだから。

 さすがに直接言ってほしかったなとは思ったけれど。

 でも、これからが大切なんだ。

 ウィーンへと発つまでの間、月森くんを忘れない為に、月森くんが何も心配することなく出発できるように、私なりにできることをしなくちゃ。


「あのね」

 月森くんが振り返った。

 何も言わない私に、怪訝そうにしている。

「どうした、香穂子」

 少し先を歩いていた月森くんが私の所まで戻ろうと足を出しかけたその時。

「動かないで!」

 一歩出しかけた足を止めて、月森くんが止まった。

 傍にいたら、きっと泣く。

 それじゃなくても、もう泣きそうなのに。

「あのね」

 もう一度繰り返した。

 深呼吸して。

 一気に喋った。

「あのね。・・・月森くんがウィーンに行くの、・・・寂しいよ。でもね、月森くんには頑張って欲しいの。夢が叶う絶好のチャンスを、つかんでほしいから。だからそれまでの間」

涙がぶわっと溢れそうになるのを、懸命にこらえる。

「月森くんの心が、寂しくないように。乾いて、しまわないように。私がいっぱい潤してあげる。私ができること全部で。だから、月森くんは何も心配しないで。月森くんが平穏に出発できるように、私・・・」

 月森くんが一瞬ためらって、私に近づいてきた。

 もう、動かないでと言えなかった。

 コツコツと靴音が響く。

 とうとう溢れ出してしまった涙を見せたくなくて俯いた。

 私の視界に、月森くんの靴先が見えた。

 丁寧に、ヴァイオリンケースとカバンを置いた。

「香穂子」

 月森くんの手が頬に当たる。

 少し冷たい、月森くんの手。

 ヴァイオリンを弾く、ヴァイオリニストの手。

 私の全てを知っている、饒舌な手。

 大好きな、恋人の、手。

「こちらを見てくれないか」

 勢いよく首を振りたいけど、月森くんの手がそれを阻む。

 小さく振るに留めた。

「香穂子」

 いつまでも顔を上げない私に焦れたのか、月森くんが屈む気配がした。

「ようやく君の顔が見られた」

「月森、くん」

「ありがとう、香穂子」

 そうっと、腕が回された。

 月森くんの暖かさが心地いい。

 思わず目を閉じた。

「いつも君には安らぐ思いをしている。君がいるだけで、心が穏やかになるんだ。君と離れるのは、俺も辛い。・・・だが」

 ぎゅ、と力が込められた。

「君と過ごした時間は、俺の中で確かに在り続ける。だから、香穂子」

 それまで頭の上から聞こえていた月森くんの声が、耳元に近づいた。

「それまで、時間の許す限り、一緒にいてくれないか。君をもっと心に刻んでおきたい」

「・・・うん」

 遠まわしな言い方に含まれるその意味も、汲み取ったつもりだった。

 月森くんが驚いて、少し体を離した。

「いいのか?俺の言った言葉の意味が、わかっているのか?」

「わかってるよ。私も、月森くんで満たされたいから。だから」

 続きは唇で塞がれて出てこなかった。


 足りないものを満たそうとするかのように、お互いを求めて、求められて。

 何度も何度も重ねた肌の熱さを。

 きっと、ずっと忘れることはないんだろうなとどこか遠くで思いながら、月森くんの背中に縋りついた。

 

 

2010.6.30UP