耳元で名前を囁くな

 




「月森くん」

 呼ばれた当の本人が、耳を押さえて振り返った。顔が赤い。

「ごめん、びっくりした?」

「・・・というより、何故そんなに近くで呼ぶんだ」

 そんな間近で名前を呼ばないで欲しい。
 頬を染めて耳に手を当てると、わずかに熱かった。
 だって、と香穂子が身を起こす。

「何度も呼んだんだけど、返事してくれないから」

「・・・それはすまなかった」

 ううんいいけど、と言いながら、香穂子が隣に座る。
 何をするでもなく、何を話すでもなく。
 ただ隣にいる香穂子の存在が心地よく感じられることに、月森は気がつきはじめていた。

「ヴァイオリンの練習はいいのか?」

 読んでいる本から視線は上げない。意外と至近距離で、なんだか目を見て話すのが恥ずかしいからだ。
 それを知っているのかどうなのか「何を読んでるの?」と覗き込む。・・・別に見られて困るようなものでもないから、とうとう香穂子に渡してやりながら、月森が問うた。

「うん、今日はね」

 まさかリリのメンテナンスでヴァイオリンが今手元にないとも言えず、適当に誤魔化した。

「月森くんも、練習は?」

「キリのいいところで止めようと思っているんだが」

 そういうときに限ってキリのいい所までいかない。かといって斜め読みするのは性格上できないから、ヴァイオリンケースを隣に置いて読書に勤しむはめになっている。

「どうして本が先だったの?」

「風が収まるのを待とうと思っていたんだ。その間に読もうかと」

 ああなるほどねと香穂子が頷いて、ただめくるだけだった本を返す。
 屋上は遮るものがないから、風が吹くと意外と強い。楽譜が飛んでいってしまうし、そんなことに気を取られながら練習したって身にならない。しかし天気はいいから、校舎にいるのも何だかもったいない。

「・・・で、読書」

「ああ」

 結局途中で栞代わりの絵葉書を挟みながら、月森が頷いた。
 本を読みながら人と話すのは失礼だと思うのと、香穂子との会話を読書しながらなんていうのが惜しい気がして。

「俺に何か用があったのか?」

「え?」

「だから話しかけたんだろう?」

 何度も呼びかけるんだから何か用があるんだろうと思ったのだが「何もないんだけど」と返ってきた。

「月森くんがいたから、何してるのかなあって。一度呼んでも返事がなかったから、だんだんヤケになってきちゃって」

 せっかくの読書中にごめん、と今更すまなさそうに謝られても、もう本を読む気分にはなれない。
 ・・・たまにはいいか。
 無駄な時間などいらないと思っていたが、ただ何気ない話をする「無駄な時間」を楽しんでみるのもいいかもしれない。
 そんな心境の変化にどこかで戸惑いつつも、月森はようやく香穂子の目を見た。

「君は、ピアソラに興味があるだろうか?彼はタンゴの『伝統の破壊者』と言われて・・・」











ヒトリゴト。(ブログより

名曲ア○バムで、こないだピアソラをやってましたね。「アディオス・ノニーノ」作曲された経緯は悲しいものですが、いい曲だなあと思ったのでネタにしてしまいました。

 

 

 

 

2010.10.8UP