コンクリートの冷たさに安心するのは

 




 

 いつの季節も、変わらずに流れていく雲。
 何も考えずに雲の変化を眺めていたら、唐突に声をかけられた。

「あ、月森くんだ」

 コンクールが始まってから、同じヴァイオリンというだけで何かとつきまとう、普通科の女子生徒。

 異例の普通科からの参加、しかも本人はコンクールメンバーの発表後に初めてヴァイオリンを手にしたらしい噂がまことしやかに囁かれているという「超ど素 人」。本人もそれを否定しないから、尾ひれ背びれをつけた有り得ないような噂話が・・・音楽科の中でだけだが・・・飛び交っていたりする。実は双子で、そ の片割れが弾いているだとか、ヴァイオリンを手にした時は違う人格になるだとか。そんな下らない噂を本気にしているわけではないが、一朝一夕で弾けるよう になる楽器ではないから、一度尋ねたこともあった。否定もしないが、多くを語ろうとはしなかった。
 技術もへったくれもない、初心者にもほどがあるレベルでコンクールに出場するのをやめてくれと言ったのに、目の前ににこにこと笑って立っている彼女は一歩も譲らなかった。それどころか、真っ直ぐに自分を見返して、言い切ったのだ。

「私、ヴァイオリン頑張るから」

 と。
 個人で楽しむ分には好きにしたらいいと思う。けれど、コンクールという舞台に出る以上、それなりのレベルでなくてはならない、と月森は思うし、彼女にもそう言ってきた。
 けれど。



「これから練習?ちょっとその前に聞きたいことがあるんだけど」

「断る」

 間髪入れずに即答しても、しょぼんとしていたのは最初だけで。すぐにへこたれなくなってきた。

「まあまあ、減るもんじゃなし。教えてもらえたら、私の技術だって向上するし、ね?」

 それを言われると弱い。香穂子の技術がどうというのではなく、コンクールの質が上がることに対して、である。

「ここなんだけど」

 楽譜を手に、月森に指し示す。ああそこは、と言いかけて口を噤んだ。

「ライバルに教えることはない」

「え、月森くん、私のことライバルって認めてくれるの?嬉しいなあ」

 嬉しそうに笑う香穂子を、じろりと見下ろす。

「とにかく」

 香穂子が大きな瞳をぱちりと瞬きした。

「練習の邪魔をしないでくれないか。君のせいで調弦ができない」

「あ、うん、ごめんね。お邪魔しました」

 教えてほしいと乞うてきたのは向こうなのに、あっさりと引き下がる。じゃあまたねと手を振って走り去っていく後ろ姿を横目に見ながら、ヴァイオリンケースを開けるためにコンクリに膝をついた。




 
 君をヴァイオリニストとは認められない。
 そう言ったのは自分だし、今でもそう思っている。
 けれど言った直後には、自分の言葉を後悔してもいた。
 中途半端な気持ちで楽器を触ってほしくない。そんな思いから発した言葉だったけれど。
 少し経ってよくよく考えてみると、皆が皆、自分のように音楽で身を立てようとしているわけではないのだ。
 彼女のように楽しむだけで弾いている人だっているだろう。何も全てを否定するような言い方をしなくても、他に方法があったはずだ。
 けれど今更撤回することなどできないから、結局そのままになってしまっている。
 いつか。
 香穂子を一人のヴァイオリニストとして認めると、そう言える機会があるといい。
 コンクリに膝をついたまま、もう一度香穂子が走り去ったほうを見てみる。

「え?」

 とっくにいないと思っていた香穂子が、こちらを見ていたのだ。
 いつもの笑顔ではなく、真剣に、月森の一挙手一投足を見逃すまいとしているような。

「・・・日野?」

 声をかけると、はっと我に返った香穂子が、無言で背を向けた。
 いつもの明るい笑顔で、わざと邪険に冷たくあしらっても食い下がってくる、あの香穂子が。
 あんなに切ない表情をするなんて。

「・・・俺には、関係ない」

 制服越しにコンクリの冷たさが伝わってくる。
 心がザワザワしている月森には、その冷たさが心地よくも感じられた。

「俺には、・・・関係、ない」

 ヴァイオリンに向かってポツリと呟き、今までの出来事を忘れ去るかのように取り出した。

 

 

 

 

 

2010.12.4UP