喉を裂くアリアは誰がために

 




 ウィーンに来て3年が過ぎた。

 毎日が忙しく、講義に課題に実技にテスト、時間に追われる日々を送っている。

 香穂子のことをふとした瞬間に思い出すことも、少なくなってきた。思い出して突然狼狽することも。

 それがいいことなのかどうか、今の月森にはわからない。

 

 

「おい!月森!」

 当座の生活費を下ろして、アパルトマンに帰る途中だった。

 背後から声をかけられた。・・・日本語だ。

「やっぱり、月森だ!久しぶりだな、元気だったか?」

 アジア系は少ないからすぐに目に付くんだよなと快活に笑った青年。

「・・・君、は」

「覚えてない?星奏で同じクラスだったんだけど・・・覚えてないだろうな。もう3年も経つんだもんな」

 名前を聞いても覚えていなかった。

 

「俺さ、ドイツに短期で留学してんだ」

 星奏の大学部に進み、国内のコンクールで入賞したことをふまえ、半年の留学権をもらったのだという。

 近くのカフェに入るなり、自称クラスメイト・・・阿部だと言った・・・が言った。

「来月には帰るんだけどな。月森は、元気・・・そうだな」

「ああ・・・」

 

 青年が語るのは、星奏での思い出や、今の状況などで月森が口を挟むことはない。どうでもいいと思っているわけではなく、ただ聞き役として彼の話を聞いていただけだった。

「・・・なあ、月森。お前、何も聞かないのな」

「何をだろうか」

 星奏の大学部に進んだ、元クラスメイトが何かを探るように月森を見た。・・・香穂子のことを暗に指していることに気がついた。

「君が話したいなら話せばいい。俺から聞くことは何もない」

「相変わらずだなあ」

 前はそれが怖かったけど、俺も成長したなと笑う彼に一瞥をくれてやる。が、言ったとおり効果はないようだった。

「じゃあここからは俺の独り言な。・・・月森が留学した後、俺たちの卒業を待って金澤先生が退職した。コンクールメンバーで星奏に進んだのは5人。と二人か」

 全員ではないらしい。メンバーは全部で7人だった。

「柚木先輩がアメリカに行った。もう一人は月森。二人ってのは、報道部の」

 と言ったところで、月森の顔が嫌というほど顰められた。それを見たクラスメイトが笑う。

「相変わらずだな!そうだよ、天羽さんと、もう一人は・・・なんつったかな」

「加地か?」

「ああそうそう。お前知って・・・ああ、そっか、アンサンブルとコンサートで一緒だったもんな」

 コンクールメンバーが全員大学部に進んだということは・・・

「日野もヴァイオリン専攻で頑張ってるみたいだぜ。コンクールでいつもいいとこまではいくみたいだけどな」

 今回の留学選考には漏れたのだと言う。

「加地は文学部いって、相変わらず日野さんのおっかけしてるらしい」

 香穂子が今もヴァイオリンを続けている。

 そのことが、何より嬉しかった。

「月 森が学校辞めてウィーンに行ってしばらくの間、みんな日野さんには腫れ物に触るみたいな接し方だったらしい。月森がいなくなったら音楽科に転科するんじゃ ないかって噂もあったけど、結局は普通科に残った。そのことで、ヴァイオリンはもう辞めたとか色々陰で言われたらしいが・・・俺も詳しくは知らない。大学 受験で日野さんを見たときはマジで驚いたけど、何か心境の変化でもあったのかもな。土浦とか加地とよくいるの見かけるぜ。土浦に鞍替えしたとか、加地だろ うとか女子連中が言ってるけど・・・」

 言葉を切って、月森を見る。ただ静かに・・・内心はどうか知らないが・・・聞いているように見えた。

「俺は、月森にも日野さんにも、諦めてほしくないと思ってる」

「・・・え?」

「大学入ってから、日野さんも落ち着いてきたように見えるけど、お前の話題になると逃げるんだってさ。コンクールで入賞しただの、雑誌に載っただの、そんなことにまで」

 月森の表情が僅かに歪む。そこまで思い出したくないのだろうか。

 確かに何も言えないまま発ったのは、今でも後悔している。メールをしようと思えばできるけれど、・・・もう3年だ。何もかも今更だろう。

「だから周りは・・・日野さんのこと良く思ってない連中以外だけど、何も言わなくなった。大学入って変わったよ、彼女。・・・音も、性格も」

「音、も?」

 ああ、と頷く。

「なんつーか・・・聴いてていたたまれないっていうのかな。実技で何度か聞いたり、外で弾いてるの見たことあるけど。音が痛いんだよな」

 音が痛い。

 月森がいた頃はそんなふうに言われたことなどなかったはずだ。技術が拙くて聴いていられないことはあったが、そういう意味ではない。

「時々、物凄い切羽詰ってんなあって思う時があるぜ。そういう時って、大概お前がらみだと思ってるけどな、俺は」

 この青年がそう思っているだけで、実際には課題が仕上がらないとか、そういうことなのかもしれないが。

「さっきも言ったけどさ。俺は諦めて欲しくないんだ。日野さんは月森と一緒にいるのが普通になってただろ?そういう風景を見られなくなるの、嫌なんだよ」

「それは君が勝手に思っていることだろう」

「まあそうなんだけど。日野さんの周りにいる連中の総意っつっても過言じゃないぜ」

「まさか」

「日野さん、ここに来なかったか?」

「・・・え?」

 突然の言葉に、どう返していいのかわからなかった。香穂子が、ここに、来た?

「ああ、じゃあやっぱ噂なのかな。なんかさ、パスポートの申請したんだってさ。多分海外のコンクールに出るからじゃないかと俺は思ってたんだけど」

 出なかったんだ、と阿部が言った。

「俺、同じヴァイオリンじゃん?そうすっとコンクールもいつどこでやるかって情報入ってくるし。高校でもそうだったけど、エントリーすると実技が少し多くなるだろ?講義が免除されたりさ。俺、エントリーしたけど、日野さんは」

「・・・出なかったのか」

「ああ。だからてっきり月森に会いに行くためなのかなって・・・」

 月森の表情がみるみるうちに強張る。能面のようなそれは、香穂子に出会う前のそれだった。正面に向かい合った青年がそれに気付いて口を噤んだ。言ってはならないことを、自分は言ってしまったらしい。

「ご、ごめん」

「君が謝ることじゃないだろう。・・・彼女とは、会っていない」

 え、と阿部が目を見開いた。

「空港に見送りに来てくれて、それ以来だ。連絡も取ってない」

「・・・お前は、それでいいのか?」

 その言葉が、深く胸に突き刺さった。

 

 

 じゃあまたどこかで、と気軽に背を向けたクラスメイトの背を見つめる。クラシックの世界は意外と狭い。またどこかで会うこともあるだろう。

 伝言はあるか、と言ってくれた好意は嬉しいと思う一方で、何を今更、と思う気持ちのほうが大きくて・・・結局「何もない」と告げるのが精一杯だった。

 ヴァイオリンを続けている香穂子。

 自分の話になると逃げる香穂子。

 音が変わってしまった・・・香穂子。

「今会えたら・・・」

 今彼女に会えたら、彼女の音は戻るのだろうか。いやそれは自惚れでしかない。

 一言、メールを送ってみようか。

「・・・いまさらだろう」

 そう、何もかも。

 今更なのだ。

 

 ヴァイオリンを取り出す。

 手早く調弦して弓を張り、肩に乗せた。

 とにかく何かを弾きたかった。

 滑り出した音が奏でているのは。

『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』

 アリアとしては高音域の為、超絶技巧曲として知られる。メロディーそのものはアップテンポであるが、宿敵を殺害するよう命じた娘に、もし断るのならば母娘の縁を切ると歌う母親の執念を歌ったものだ。

 何故この楽曲が出てきたのかはわからない。

 ただ思うままに奏でる音楽など自分の糧にはならないと知っているのに、今はただ感情の向くままに任せていたかった。

『勘当されるのだ、永遠に

 永遠に捨てられ、

  永遠に忘れ去られる、

   血肉を分けたすべての絆が。』

 自分は自惚れてもいいのだろうか。

 どんな形であれ、彼女の心の中に自分の存在がまだあると。

 忘れられていないと。

 計算しつくしたものではない、今の月森の感情をそのままぶつけただけのアリアが、一人の部屋につんざくように響く。

 その音響を身に受けてなお、月森は奏で続ける。

(香穂子・・・、香穂子!)

 かなうことなら、今すぐにでも会いに行きたい。電話でも、メールでもいい。彼女の存在を感じたい。

 けれど、今はできない。

 今の月森が香穂子に連絡を取ることはできない。

 そうしてしまったら、きっと自分は自分を見失ってしまう。

 彼女の存在だけで埋まってしまう。

 音楽を、・・・忘れてしまう。

 だから、今は。

 

 弓をゆっくりと下ろす。

 詰めていた息を思い切り吐き出した。

「・・・香穂子・・・」

 あと1年と少しで大学を卒業する。

 ソリストとして身を立てていきたいから、それで落ち着いたら彼女を迎えに行きたいと思っている。

 でもはっきりとそう告げたことはない。告げられなかった。

 もしかしたら、別な誰かを選ぶかもしれない。もう自分を必要としていないのかもしれない。

 香穂子の隣に別な誰かがいる。・・・考えたくない。でも、それを彼女が選んだのなら、自分はそこまでだったということだ。

 待っていてほしい。

 今でも、自分だけを想っていてほしい。

「・・・香穂子・・・!」


 

 感情に任せて弾いたアリアの、もうないはずの音が、月森をかき乱すようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒトリゴト。

 いいネタきたこれ!と意気揚々と書き始めたものの・・・竜頭蛇尾っていうんでしたっけね、こういうの。ああ・・・(泣

 歌詞はウィキペディアから。視聴もできます。あーこれ聴いたことあるなあと思いながら聞きましたが、歌詞が・・・おっかない!

 実は二通りお話を思いついたのですが、もうひとつはムダに長くなる自信があったので(えぇ・・・)、書き直しました。アリア=金やんで浮かび、金やんの歌うアリアが・・・というお話でしたが、あまりにかわいそうすぎる・・・

 オリキャラ登場すみません(今更!

2011.5.19UP