…君は、いじめたくなるね

 




 

「違う」

 もう一度だ。
 冷たい、硬質な声が響く。はい、と緊張を滲ませた声音がそれに応じるが。

「違う、と言っている。何度言わせれば済むんだ」

「・・・・・・」

 何度も何度も。
 二人きりの練習室で、今日は特別過ぎるほどに厳しい月森のレッスンはしかし香穂子の技術的なレベルを上げるには必要なもので。
 ふう、と溜め息をついた月森が、少し休憩しようとヴァイオリンを肩から下ろした。

「ごめん、もうちょっとで掴めそうなの。もう少し続けていいかな?」

 無駄な練習を何より嫌う二人だから、もう何度も続いているこのフレーズをずっと練習しているのは根を詰めることになるからと気遣う月森に、香穂子が「お願いします」と頭を下げた。

「・・・わかった」

 開けかけた窓の鍵をカチリと閉めて、月森が元の位置に戻ってきた。
 ただし、と言い添えて。

「手抜きはしない。覚悟してくれ」

 琥珀色の瞳に、アイスブルーの炎が見えた気がした。





「そう、そこはビブラート。・・・次のクレッシェンドに気をつ」

 けて、と言いかけた言葉が出てくる前に躓いた。

「クレッシェンドになっていないだろう。どうしてそうなる」

「・・・気持ちがノッちゃうと、ね・・・」

 あははと笑って誤魔化そうとしても月森に通用するはずもなく。
 またしても盛大な溜め息をつかれてしまった。

「短い拍数の中でのクレッシェンドだから、急ぐ気持ちもわからなくはない。しかし、ここがある意味、君の言う『見せ場』なんだ。もっと丁寧に弾いてくれ」

「なるほどね、わかった!」

 月森のアドバイスに何かを得たらしく、早速弓を引いた。





 湖のような、静謐さ。それを覆す一滴の雫。
 波紋を描いて徐々に広がっていくそれは、やがて大きな波となり、全てを飲み込んでしまいそうなほどの威力を持つ。
 その波を、厳然と受け止めようと立ちはだかるのは。

(私だ・・・!)

 受け止めるんじゃない。
 飲み込むんだ。
 この大きな波を、自分が飲み込めるほどの技量でもって鎮めるのだ。
 また、静かな水面へと。

(その、第一歩)

 その、クレッシェンド。
 香穂子と正面からぶつかりあう。

(あ・・・)

「そのまま続けて」

 静かな声が響いた。一瞬開いた瞳を閉じると、今の気持ちに戻って大波を飲み込むべく、ヴァイオリンを奏でた。





 半ば呆然と弓を下ろすと、月森の顔が綻んでいた。

「できたじゃないか」

「うん。・・・なんだか、頭が真っ白・・・」

「それは困る。今のを忘れないようにしてくれ」

「・・・うん」

 しかし動くことができない香穂子を見、くすりと笑った。

「香穂子?」

「えっ?ああ、うん、何?」

 何、じゃないだろうと困ったように眉根を寄せれば「・・・ごめん」と肩をすぼませた。

「そんな風に謝るな」

「ごめ、・・・あ」

 また謝ろうとした自分に気付いて黙る。



「俺は、・・・少し君が羨ましい」

「羨ましい?」

 ああ、と頷いて、今度こそ窓をからりと開けた。秋の風がヒートアップした頭を冷やしてくれるようだった。

「俺にはない感情的な部分を、君は簡単に弾くことができる。俺がそう弾くようにと意識している事を、君は無意識にやってみせる。それが、俺には羨ましい」

 そして、と言いながら振り向いた月森の唇には、何故か意地悪な笑みが浮かんでいた。

「時々、そんな君が羨ましくて、練習を厳しくしてみたくなったり、レベルの高い技術を教えようとしてみたりして」

 カツンと音を立てる靴音が、やけに大きく聞こえた気がした。
 月森の端正な顔が、すいと目の前に現れた。息を呑んでその眼差しを見つめ返す。
 ふ、と優しい笑みの中に、それだけではない感情が見えた。





「君を、いじめてみたくなるんだ」




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