僕の名前を呼ばない唇ならいらない

 




 

人ごみを縫うように颯爽と歩くその姿は背筋が伸びている。

長旅の疲れも見せず、手早く自分の荷物をピックアップして検疫を終わらせる。

二つもあるスーツケースは送ったほうがいいなと周りを見渡すと、少し遠くから「月森くん!」と呼ぶ声が聞こえた。

聞き間違えることのない、愛しい婚約者の声を。

「・・・香穂子!こんな早朝に、わざわざ来てくれたのか?」

「ちょっと寝坊しちゃってね、ちょうど今着いたところ。走ったから髪ボサボサだよー」

手櫛でざっと直してみるが、毛先が少し跳ねるのは仕方がないと諦めた。

3ヶ月ぶりの逢瀬。

ウィーンと日本を慌しく行き来する月森を、香穂子はできる限り空港へ迎えに行く。

少しでも長く一緒にいたいからだと舌を出して笑う香穂子に「ありがとう」と微笑むと、スーツケースを送るために歩き出した。

「ウィーンで母から君にと預かったものがある。スーツケースに入っているんだが」

「え、何だろう?」

「今ここで開けるわけにはいかないから、届いたら見てほしい」

「うん」

小さなものやかさばらないものだったら手荷物として持っているはずだから、かさばったりするものなのだろう。そう思いながら「後でお礼のメールしておかなくちゃ」と楽しそうに笑った。



夜。

香穂子は午後から講義があるため一度帰宅し、月森も長旅で疲れているからと香穂子に休むように言われたこともあり、自室で充分休んだ。寝てしまうと時差ぼけになるから、しっかりと眠らない。それは何度となく日本とウィーンを往復していくうちに学んだことだった。

「月森くん!」

せっかくだからどこかにご飯を食べに行こうと月森から誘って、香穂子の自宅へ迎えに行く。

学生のころは玄関先で待っていたものだが、今は香穂子の母親に「寒いから上がって!」と中に入れられて・・・正直助かったが・・・リビングで待っていると、香穂子が慌しく降りてきた。

「なあに香穂子いい年してドタバタと。もう少しおしとやかに・・・」

「あーうんごめんお母さん!月森くん、ごめんね、もうちょっと待ってて?」

聞く耳持たず、リビングから今度はバスルームへと駆けていく。

「ごめんなさいね騒々しくて。今からこんなんで、結婚したらどうるのかしらねえ」

「彼女らしくていいと思います」

「この時間に迎えに来てくれるってわかってるなら、前もって準備しておけばいいのに、ギリギリになって帰ってきたのよ、あの子」

大学のサークルでヴァイオリンを弾いている香穂子は、急遽「出張」になったのだとさっきメールが来ていた。

クライアントの要請に合わせて編成した「出張室内楽」を演奏し、僅かではあるが報酬を得る。結婚式の披露宴であったり、施設での演奏だったりするのだが、今日は幼稚園での演奏だったのだそうだ。


「ちょっと遠くてねー、これでも急いで帰って来たんだよ」

予定より20分ほど遅れて自宅を出ると、日も沈んでだいぶ暗くなっていた。

「予約の時間までは余裕がある。そんなに急がなくても良かったのに」

「うん、そうなんだけど。月森くんと少しでも長くいたいからね!」

あははと笑う香穂子に、月森は目を細めて微笑んだ。

「ありがとう、香穂子」

え、と大きな瞳を見開いた香穂子に、月森は繋いでいた手に力を込めた。



食事を終えてレストランを出て、観覧車に乗ろうと香穂子が提案して、二人で順番待ちの列に並ぶ。

季節柄、観覧車に乗るカップルも多いようだ。

「寒くないか?」

「うん、大丈夫。月森くんは?」

「俺も大丈夫だ」

手袋越しではあるが、繋いだ指先から伝わる体温が心地いい。

「順番来たよ!」

ゆっくりと回ってきたゴンドラに乗り込む。行ってらっしゃい、とスタッフがにこやかにドアを閉めた。

徐々に上がるゴンドラの窓に張り付いて夜景を眺める香穂子に、月森は一つ小さな咳払いをした。

「なあに、月森くん」

「以前から頼んでいるが、・・・その」

名前で呼んでほしい。

小さく告げられたその願いは、今年の春に再会してから何度となく言われてきたことだ。しかし香穂子には恥ずかしくて呼べない。月森だって最初は「香 穂子」と呼ぶことに恥ずかしさがあったが、名前を呼ぶ度に香穂子に対する想いを新たにすると言っていた。しかしそう言われても。

「恥ずかしい、んだもん・・・」

来年の秋には結婚するというのに、未だに「月森くん」なのはやめてほしいというのもある。香穂子もわかってはいるのだが、きっかけがない。

「俺は」

少し哀しそうに琥珀色の瞳が翳る。長い睫毛が陰影を作り、月森の端正な顔立ちを更に際立たせる。

「君に、名前で呼んでほしい。来年には結婚するというのもあるが、何よりも俺がそれを願っている」

そう言われたら香穂子は何も言えなくなってしまう。

きっかけがあれば。

月森もそれは気づいていたことではある。ただどういうきっかけを作ればいいのかがよくわからなかった。

手袋を外して、月森のひんやりとした指が香穂子の頬を滑る。その冷たさに少し顔をしかめてやり過ごす。

「・・・かほこ」

少し掠れた声で呼ぶ月森の瞳が揺れる。

ゴンドラは間もなく頂上だ。夜景を形作るライトが、月森の瞳のように揺らめく。

「俺の名前を呼ぶ君がほしい」

ピクリと香穂子の肩が揺れた。

「お願いだ、香穂子」

名前を呼んで。

小さな、小さな、月森の願い。


「・・・れん」


ハッと顔を上げると、香穂子の瞳が涙で濡れていた。

「蓮。・・・蓮」

「・・・香穂子」

愛しいその名前。一度呼んでしまえば、恥ずかしさなど感じない。

「好きだよ、蓮」

「俺もだ。君を・・・愛している」

ゴンドラはいつの間にか頂上を過ぎて、ゆっくりと下降を始めていた。

両隣が見えない一瞬の隙をついて、月森が香穂子に口付けた。









まんまタイトルでいくと、この二人的には合わないかなーと思っていて、どうしたものか悩んでたのですが、突然ネタ降臨(笑

「俺の名前を呼ぶ君がほしい」と逆を言わせることでどうにかクリア・・・してると私は思うんですが。

「スーツケースの中身編」は後日書こうかなと思います。

2010.7.21UP