ただの友達




 

 成り行きで香穂子のヴァイオリン指導を引き受けることになった月森は、練習室へと急いでいた。
 日直で遅れることは香穂子にあらかじめ伝えてあったけれど、少しでも早く彼女の元へ辿り着きたかった。
 今日の予約は8番練習室。
 いつも校内を歩くときは脱がないジャケットを片手に持ち、とにかく急いでいた。

「月森」

 ふと後ろから声をかけられた。
 聞き覚えのない声。また、嫌がらせか。
 足を止めてしまったから、振り返らないわけにいかない。
 小さくため息をついて仕方なく見やると、案の定知らない男子生徒が立っていた。
 音楽科の制服。タイをしていないから学年はわからない。呼び捨てにしたことからすると、同学年か先輩だろう。

「・・・何か?」

 8番練習室を目の前にしているのに。
 このドアを開ければ、彼女が待っているのに。
 苛々とささくれだつ気持ちを隠しもせず、月森が問うた。

「聞きたいことがあるんだけど」

「時間がないので」

「まあそう言わず」
 ニヤッと嫌な笑い方をする。
 音もせずに月森の目の前に歩み寄る。

「普通科の日野と付き合ってるってホントか?」

 まただ。
 これで何度目だろう。
 月森は香穂子のことが好きだ。
 しかし、本人にも言っていないし、言うつもりもない。
 こんなことを言うのは、自己満足でしかないと思うから。
 好きだと告げた後で今の関係が壊れることを恐れていることもある。
 時折何か物言いたげに見つめる香穂子の視線に、もしかしたらと思わないわけではないが、確証はない。
 しかし周りから見ると、一緒に練習したり登下校していることで「付き合っている」と思われているらしかった。
 実際、コンクール後、こうして呼び止められることが多くなったことがそれを物語っている。

「・・・・・・」

 香穂子のヴァイオリンの音が微かに聴こえている。
 いつもならこんな拙い音は忘れてしまうのに、心に残って離れない、香穂子の音色。
 月森が欲しいと願って止まない、人を想う優しい音。
 その音を聞きながら、月森は自嘲の笑みを漏らした。

「つきも」

「俺と、日野は」





 これは自戒だ。
 香穂子を想う気持ちを地に落とす、自分への枷。

「俺と、日野は・・・ただの友人です」

 男子生徒が目を見開いた。
 この先、目の前にいる生徒が香穂子に何らかの行動を取ったとしても、自分には何もできない。
 香穂子が目の前で誰か他の男の手を取ったとしても、月森にはそれを止める術はない。

「あ、そう」

 かなりあっさりと男子生徒が頷いた。

「わかればいいんだ」

 それだけ言うと立ち去って行った。





 ただの友人です。
 心の中で自分が吐き出した言葉に埋もれそうな感覚を覚えた。
 彼女が誰かの隣で微笑んでいる姿を想像するだけで、体が震えそうになる。

(・・・嫌だ)

 あの音色が欲しい。誰よりも、自分が。
 あの笑顔に満たされていたい。
 その術を、自分から手放した。
 たった今。

(告げてみようか)

 衝動的な気持ちになるのを、僅かな理性で押し留めた。
 そんな一方的に自分の気持ちを押しつけるだけのことはしたくない。
 そうして香穂子の、あの音色を傍で聴けなくなってしまうのが怖い。



 自分のことなのに。
 思うようにいかない。



 気持ちを抑えようと何度も深呼吸を繰り返す。
 深く息を吐いて。
 月森は8番練習室のドアを開けた。






 ともだち。
 それが自分の選んだ、彼女との距離。
 今は壊せない、自分が彼女の傍にいられる、一番近い場所。
















ヒトリゴト。(ブログより

中途半端な感じにしてみたかった、なんつーのは言い訳ですかね。

 

 

 

2010.6.11UP