さりげない優しさが辛い




 

 新しく挑戦する楽譜が欲しいんだけど何を選んだらいいのかわからないという理由で、今度の土曜に月森と楽譜探しに行くことになった。
 音楽に関係する事柄になると、月森はとても協力的だ。自分にできる協力は惜しまないと、以前言ってくれたことがある。その言葉に最大限甘えて、香穂子はヴァイオリンを教えてもらっている。
 自宅にある楽譜を貸すという月森の言葉はそれはそれで惹かれたけれど、それはまた今度と次の約束も取り付けておくに留めた。

「おはよう、月森くん」

「・・・おはよう」

 駅前の時計台の下で待ち合わせたのは午前10時。
 早めに着いたつもりだったのに、既に月森は所在なさげに佇んで香穂子を待っていた。

「早いねー」

「俺が早く着いてしまっただけのことだ、君が気にすることはない」

 言い方は少し冷たく感じるが、慣れてくると些細な言い方や表情の変化がわかるようになってきた。
 そう?と努めて明るく返して、月森がいつも行くという楽器店に向かう。

「君はどんな曲に挑戦したいんだ?」

「うーん・・・何がやりたいのかもわからないというか・・・」

「では基本的なものから始めるといいだろう」

 頭の中でいくつかの曲を浮かべて、あとは店頭に楽譜がなければ自分のを貸せばいいかと段取りを立てた。





 楽器店までの道すがら、香穂子は気がついた。

(道路側を歩いてくれてる)

 駅前の広場を歩いていた時は反対側にいたのに、気付くと道路側を歩いている。
 人とすれ違う時も、香穂子をかばうように少し前を歩く。
 あまりにもさりげないから、香穂子は何とも思わなかった。

「こっちだ」

 道を曲がる時は半歩前に出て誘導してくれる。
 それに気付いてしまうと、その優しさが嬉しい反面、切なくなる。

(そんなに優しくしないで)

 思い違いをしてしまうから。
 女性にはそれなりの態度で接するように日ごろから教えられているであろう月森の一挙手一投足が、香穂子の想いを加速させていく。

(もっと好きになっちゃうよ)

 止まらなくなりそうで怖い。
 おっちょこちょいだという自覚があるから、どんな拍子に口を滑らせるか自分でもわからない。
 月森には特別な感情がないとわかっているだけに。
 さりげない優しさが、つらい。





「こっちもいいけど・・・こっちもいいなあ・・・」

 月森がいくつかピックアップした楽譜と注釈を聞きながら、2つにまで絞り込む。
 どちらを取るかで悩む香穂子に、月森が「両方購入する方法もあるが」と言うのをお小遣いの都合上だと頬を膨らませた。

「では、こちらの楽譜は俺が持っているから、そちらの楽譜を買えばいい」

「うん、じゃあそうする」

 清算を済ませて店を出る。昼食には少し早い時間。

「月森くん、この後は何か予定ある?」

「いや、何もないが」

 それが何か?と不思議そうに香穂子を見下ろした。

「ちょっと早いけど、お昼ご飯食べに行かない?」

「・・・ああ。構わない」

 てっきり断られると思っていた。自宅に帰って練習したいから帰る、とか言われるのだと。
 あっさり了承した月森に拍子抜けしてしまう。

「断るとでも?」

 顔に書いてあると珍しく笑いを滲ませて。
 香穂子は赤くなった頬を手で隠した。

「う、うん・・・ちょっとね。練習したいから帰るとか言われるんじゃないかと思ってた」

「そうだな」

 了承した事が自分でも不思議そうに、月森が少し首を傾げた。

「たまにはいいんじゃないかと・・・思っただけだ」

 ・・・痛い。
 胸が、痛い。
 月森の優しさが。



 月森の好みがわからないからどんな所に行きたいか聞いてみた。

「俺に任せてもらえるだろうか」

「え、うん。あんまり高いとこじゃなければ」

 月森家の別荘はすべて海外にしかないという話を思い出し、そういえば目の前にいるこの人は、そういう世界の人だったと思っていると、月森が苦笑を漏らした。

「君が思うほど、俺はそんなに恵まれているわけじゃないと思うが」

「でも私のより遥かに多いと思うな」

「・・・そうだろうか」

 具体的な金額を聞いたこともないけれど。
 持ち物のひとつひとつが、確かな物ばかりだから。
 おおよその値段を言われて、それくらいなら大丈夫だと頷くと、二人は歩き出した。






 どこかの豪華なレストランにでも連れて行かれるのかと思っていたら、たどり着いたのは街外れのカフェだった。
 人ごみが苦手だから、ここは落ち着くのだと月森が言った。

「良かった、普通の所で」

「・・・君はどんな所だと思っていたんだ?」

 あははと笑って誤魔化すと、月森は呆れたように小さくため息をついた。
 メニューを見てデザートをつけるかどうか真剣に迷う香穂子に、おかしなものでも見たかのように月森が眺めている。
 頼めばいいのにと呟くと「ささやかな乙女心なの!」と頬を膨らませた。
 結局誘惑に抗えずに「デザートもお願いします」と香穂子が言うのを、月森は口元に手を当ててやり過ごした。






「誘ったのは私なんだから、ご馳走するつもりだったのに」

「君が気にすることはない」

 財布をジャケットの胸ポケットにしまいながら、月森が答えた。
 楽譜を選ぶのに付き合ってくれたお礼に奢るからと言う香穂子を制して、さっさと月森が支払ってしまった。
 せめて自分の分は払うというのも固辞された。

「君がヴァイオリンで応えてくれれば、それでいい」

「・・・がんばります・・・」

 ありがとう、と香穂子がぺこんと頭を下げた。
 ああ、と答えながら、また一緒に来れたらいいと思う自分に驚きを覚えた。






「今日はどうもありがとう」

 自宅まで送ってくれた月森に、門扉に手をかけながら香穂子が微笑んだ。

「いや。・・・それじゃ」

「うん、気をつけて帰ってね」

 ありがとうと軽く手を上げて、月森が背を向けた。

 ただ楽譜を選ぶのに付き合ってもらっただけなのに。
 それ以外の、小さな優しさに触れてしまったから。

(もう、止まらない)

 月森が好きだという想いを止めることができなくなってしまった。
 でも女性にはそう接するものだと思っている月森に。

「言えないよ・・・」

 小さくなっていく後ろ姿。
 前を向いて、背筋を伸ばして。
 真っ直ぐに歩く人。
 冷たい物言いをするのに、どこか全てを突き放せない。
 琥珀色の瞳の奥に、何かを恐れている。
 だからこそ。
 時折見せる月森の優しさに、香穂子は戸惑う。

(もっと知りたい)

 月森蓮という人を。
 優しく、穏やかに微笑む表情を知っているから。

 角を曲がって、月森の姿が消えた。

「またね、月森くん」

 小さく小さく、呟いた。
 それは、香穂子の想いを少しでも食い止める堰になり、心にほんの少しの重さを乗せる。

(・・・またね)

 一瞬目を閉じる。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 そうしたら、いつもの自分に戻ろう。
 ガチャンと門扉を閉めて。いつもの元気のいい「日野香穂子」に戻ろう。



「ただいまー!」

 

 

 

 

2010.3.10UP